国東界隈、ねほりはほり編

5. 嶺入りの変遷 ― 修行の道は、どう受け継がれてきたの?

ねほりはほりシリーズ、第5回。ここまで続けてきた流れの、ひとまずの区切りの回です。

六郷満山という名前を掘り、仁聞菩薩の伝承を掘り、八幡神の正体を掘り、神仏習合という言葉を掘ってきました。 最後に掘るのは、言葉でも書物でもありません。です。

峰から峰へ、岩屋から岩屋へ。仁聞が開いたと伝わる峰々を歩き通す修行――峯入り(みねいり)。 千年以上のあいだ形を変えながら続いてきた、この「歩く伝承」の変遷をたどります。

そもそも「峯入り」って何をするんですか?

ひとことで言えば、国東半島の行場(ぎょうば)を全部つないで歩く修行です。

行場とは、岩屋(洞窟)、そそり立つ耶馬の岩峰、断崖に架かる無明橋、磨崖仏――第1章以来おなじみの、火山が用意したあの舞台たちのこと。ふだんは谷ごとに分かれて暮らす僧たちが、峰の道でそれらを一筆書きにつなぐと、半島全体が一つの巨大な修行場として立ち上がります。第8章で見た「半島をめぐる修験のネットワーク」の背骨が、この道でした。

始まりの伝承 ― 案内人は、亡くなったはずの仁聞

峯入りの起源として語られるのは、斉衡2年(855)の出来事です。修行者の前に、百年以上前に入寂したはずの仁聞があらわれて、峰々をめぐる道を自ら示した――第2回で紹介した「死後もあらわれる仁聞」の代表的な一幕です。

この伝承を額面どおり受け取るわけにはいきませんが(第2回でやった史料の読み方です)、語っている中身は明快です。峯入りとは仁聞の行跡をなぞる行である、という自己定義。開祖の歩いた道を歩くことで、僧たちは物語を体で受け取り直す。縁起が「読む伝承」なら、峯入りは**「歩く伝承」**でした。

中世 ― 一人前になるための道

第7章で書いたとおり、中世の六郷山で峯入りは新入りの僧の登竜門でした。この峰の道を歩き通してはじめて、満山の修行者として一人前と認められる。共同体の入会儀礼が、そのまま半島一周の荒行だったわけです。

各寺で修行した僧たちが同じ道を歩き、同じ行場で祈る。谷ごとに分かれた寺々が「六郷山」という一つの共同体でいられた理由のひとつは、この共通体験にあったのだろうと思います。歩いた者どうしにしか通じない連帯感――現代の登山仲間にも、ちょっと覚えのある感覚かもしれません。

江戸 ― みんなで歩く行事へ

第10章の再興の時代になると、峯入りは集団で行う行事としての形を整えていきます。半島じゅうの霊場をめぐる大がかりな道行きは、修行であると同時に、復興した満山の結束を確かめ、世に示す一大イベントでもあったのでしょう。

明治の断絶を越えて ― 現代の峯入行

明治の神仏分離は、この道にも打撃を与えました。それでも峯入りは、第11章で見たように形を変えながら生き延びます。

現代の峯入行(みねいりぎょう)は、戦後に再興され、およそ10年に一度のペースで六郷満山の僧たちによって続けられています。白装束の行者たちが御許山に集い、宇佐神宮に参拝したのち、熊野磨崖仏の前で開白護摩を焚いて行をひらき、180あまりの霊場・約160kmを歩いて、両子寺で結願を迎えます。道中には、シキミの枝を投げる散華や、岩塊から飛び降りる岩飛びといった行法も伝えられています。開白の地・熊野磨崖仏の麓は胎蔵寺――第8章のコラムで「峰の道はいまもこの寺から始まる」と書いた、あの寺です。

近年では2010年、そして開山1300年を翌年に控えた2017年の春にも、僧たちが険しい峰の道を踏破しました。1300年の節目には一般参加の企画も生まれ、千年の登竜門は、少しずつ一般の歩き手にも門を開きつつあります。

そして道は、誰にでも開かれた

もうひとつの現代の変遷が、トレッキングコース化です。

「六郷満山の峯入りの道」は文化庁の歴史の道百選に選ばれ、そのルートをもとに「国東半島峯道ロングトレイル」が整備されました。旧千燈寺跡から五辻不動への道も、田染荘の里をめぐる道も、いまは誰でも自分の足で歩けます。

修行の道が観光の道になった、と言ってしまえばそれまでです。でもこのシリーズを読んでくださった方なら、別の見方ができるはずです。

峯入りは千年のあいだ、開祖をなぞる行→一人前の登竜門→結束を示す行事→開かれた峯入行と、姿を変え続けてきました。その進化の方向をひとことで言えば、「修行する」から「歩いて六郷満山を感じる」へ。ロングトレイルはその現在形の代表ですが、進化がそこで打ち止めになったわけではない、と私たちは考えています。

だから、全行程を歩き通さなくてもかまいません。峯道の一区間だけでも。一つの寺の山門から奥の院までを、ゆっくり登ってみるだけでも。あるいはトレイルの入り口に立って、峰の気配を吸い込んでみるだけでも――自分なりに何かを感じる歩きなら、それはもう現代の峯入りの一形態だと思うのです。千年前の新入りの僧と同じ道に、誰でも、どの長さからでも合流できる。「歩くことで半島が聖地になる」という構造は、そんなふうに器を広げながら、いまも進化を続けています。第7章の言い方を借りれば、これもまた「切り替わらないまま、進化する」です。

今日のねほりはほり、そしてひとまずの結び

  • 峯入りは仁聞の行跡をなぞる「歩く伝承」。起源伝承は855年の仁聞示現
  • 中世は新入り僧の登竜門、江戸は集団で歩く行事、現代は峯入行(約160km)とロングトレイル
  • 進化の方向は「修行する」から「歩いて感じる」へ。全行程でも一区間でも、山門から奥の院まででも――自分なりに感じる歩きは、みんな峯入りの現在形

そして、これがシリーズのひとまずの結びでもあります。 六郷の地図も、仁聞の物語も、放浪する八幡神も、神と仏の千年の同居も――この半島では、どれも本の中だけの話ではありません。峰の道を歩けば、岩屋が、石仏が、鳥居のある寺が、風景としてそこにあります。

根掘り葉掘りの答えは、いつも同じところに行き着きます。 国東は、歩けばわかる。

机を離れて、靴を履きましょう。 まずは、どこか一つのお寺の、山門から奥の院までからでも。よい旅を。

そして、ねほりはほりもここで終わりではありません。この半島は歩けば、新しい「そもそも」が次々に見つかるからです。シリーズは、これからも不定期に続きます。


行ってみよう: 現代人のプチ峯入り ― 五辻不動

靴を履いたら、最初の一歩にちょうどいい道があります。五辻不動(いつつじふどう)第9章の行ってみようで、旧千燈寺跡から尾根を登りつめた先として紹介したあの岩屋です。 下から歩けば登り1時間ほどの道のりですが、峠まで車で上がってしまえば、歩くのは10分ほど

峠の駐車場に車を停めて、少し切り立った峯道へ入ります。 距離は短いのに、道はいきなり修行の顔をしています。 最後のひと登りには鎖も渡してあり、足元に自信のない向きはそれを頼りに登れます。 歩きやすい靴だけは、用意してきてください。

そしてこの10分は、国東半島峯道ロングトレイルのK1コースの一部です。 霊仙寺から岩戸寺まで、大不動岩屋・旧千燈寺・不動山を経て五辻不動をつなぐ長い一日行程―― その核心部だけを、10分で味見させてもらう格好になります。

岩棚の不動さんの前に立つと、視界がひらけます。 国東の山なみ、その向こうに瀬戸内海。姫島が浮かび、天気がよければ山口県の島影まで見えます。 1300年前にここへ登ってきた修験者が何を思ったか――少しだけ、想像に手が届く気がします。

伝承では、この五辻不動の岩屋で修行する仁聞に感じ入った海の龍王が、千の燈を献じた。 それが満山最初の寺、千燈寺の名の由来です(第2回)。 つまりこの岩棚は、六郷満山の物語が始まった場所でもあります。

もうひとつ。山道の途中では、断崖の上に等身大の鉄の人が、瀬戸内海を見下ろして立っています。 イギリスの現代美術家アントニー・ゴームリーが自身の体を型取った《ANOTHER TIME XX》。 2014年の国東半島芸術祭でこの岩場に据えられ、以来ずっと、風雨にさらされ錆びながら東の海を見つめ続けています。 等身大で、重さは約700キロ。

ゴームリーは2013年の秋、この山道を自分の足で歩いて、立たせる場所をここに決めたと伝わります。 歩いて、立つ場所を選んだ。現代アートの巨匠もまた、修験者の思いに共感したのでしょうか。

設置のときには、賛否両論があったとも聞きます。 千年の霊場に海外作家の現代アートを、という点だけでなく、この像が裸体であることも議論を呼んだようです。 それでも、いまこの断崖には、イギリスの作家が自分の体をかたどって置いていった人が立っています。 この岩場が持っている何かは、どうやら洋の東西も、千年の時間も、跨いでしまうものらしい。

歩くのは、たった10分です。 それでもこの回で書いたとおり――自分なりに何かを感じる歩きなら、それはもう現代の峯入りの一形態。 千年の登竜門は、10分の道からでも合流できます。

峠までの林道や駐車場、旧千燈寺跡から歩いて登る場合のルートは、 第9章の行ってみように載せた国東市観光協会のアクセスマップが便利です。