2. 仁聞菩薩の伝承って、誰がどんな風に伝えているの?
国東物語には、何度も何度も仁聞(にんもん)菩薩が登場しました。 二十八の寺を開いた開祖。八幡神の化身。修正鬼会の創始者。峯入りの道を示した導き手。 そして第7章と第8章では「その縁起は後代に整えられた」とだけ書いて、詳しい話を預かったままでした。
今回はいよいよ、その預かりものを開きます。 仁聞菩薩の伝承は、誰が、いつ、どんな形で伝えてきたのか。
そもそも、どんな「形」で残っているんですか?
口伝えの昔話……ではありません。ちゃんとした書物です。
フォーマルな記録の代表は、『八幡宇佐宮御託宣集(はちまんうさぐうごたくせんしゅう)』。正和2年(1313)、宇佐宮に仕えた学僧・神吽(じんうん)が編んだ全16巻の大著です。八幡神の由緒と託宣を集大成したもので、国東物語で「託宣」の用語の拠りどころにしてきたのも、この書物でした。仁聞が八幡神の化身として国東の谷々に寺を開いた、という物語は、ここにまとまった形で記されています。
ただし「フォーマルな記録」とはいえ、注意がひとつ。14世紀の書物が、600年も前の8世紀のことを「こうだった」と書いているわけです。今でいえば、令和の私たちが鎌倉時代の出来事を、伝え聞きをもとに書き起こすようなもの。内容をそのまま事実として受け取るわけにはいきません。御託宣集が教えてくれるのは「8世紀に何があったか」というより、「14世紀の人々が、8世紀をどう語りたかったか」――史料の読み方としては、じつはそちらが本命です。
そしてもう一つ。『仁聞菩薩朝記(にんもんぼさつちょうき)』(仁聞朝記)という、仁聞の事績を記した文書が伝わっています。こちらを仁聞信仰の源泉とみて、御託宣集に先立つ古い伝えの姿をここから読み取ろうとする研究もあります。つまり伝承には「大きな集大成(御託宣集)」と「その素材になったかもしれない古い記録(朝記)」という層があり、どちらが先か、何を写したのか――研究者たちが今も根掘り葉掘りしている最中のようです。
ちなみに、表記の話をひとつ。古い史料では「仁聞」ではなく**「人聞(にんもん)」**と書かれています。御託宣集に見えるのも「人聞菩薩」の字で、先ほどの『朝記』も目録上は「人聞菩薩朝記」。「仁聞」の字が広く使われるようになるのは、のちの時代のようです。このサイトでは、現在一般的な「仁聞」の表記に統一しています。
このほか、鎌倉時代の六郷山の実務文書(第1回で紹介した勤行目録や寺院一覧)が、共同体としての満山の姿を伝えています。伝承と実務、両方の文書がそろって残っているのが、六郷山の史料の豊かなところです。
なぜ、その時代に書かれたんですか?
では、「どう語りたかったか」を読むつもりで問い直してみます。 なぜ600年もたった14世紀のそのタイミングで、縁起をきちんと文字にする必要があったのか。
第8章で書いたことの答え合わせになりますが、この時代、由緒は鎧でした。
- 土地を守るため ― 荘園の権利が争われる時代、「この山は八幡神の化身が開いた」という由緒は、寺領を守る何よりの盾になりました
- 立場を示すため ― 宇佐の弥勒寺、比叡山の延暦寺。大きな権威に連なりながらも、「我々は仁聞開山の満山である」という物語は、六郷山の独自性の宣言でもありました
- 時代の空気 ― 御託宣集が編まれたのは、蒙古襲来(1274・1281)の後。「神の国を神々が守った」という意識が高まり、八幡神の由緒を書き残すことへの熱が、かつてなく高まった時代でした
つまり縁起の編纂は、懐古趣味ではなく現役の実務だったわけです。600年前の開山を語ることが、いま目の前の土地と共同体を守ることに直結していた――そう考えると、御託宣集16巻の分厚さも納得がいきます。
で、仁聞さまは何をしたと伝わっているんですか?
お待たせしました。伝承に残る逸話を、物語の時系列で並べてみます。
1. 御許山にあらわれる 仁聞の物語は、宇佐神宮の神体山・御許山から始まります。八幡神とともにこの山にあらわれた仁聞は、やがて国東の峰々を修行の舞台に選びました。神の化身が、僧の姿で山に入る――神仏習合の半島らしい幕開けです。
2. 養老2年(718)、二十八の寺を開く 六郷の谷々をめぐり、本山・中山・末山あわせて二十八の寺を開いたと伝わります。最初に開いたのは千燈寺。第7章で見たとおり、史実としての満山の形成はもっとゆっくり進んだのですが、伝承は「養老2年、仁聞、一斉開山」と、実に手際よくまとめています。
ちなみに、なぜ二十八なのか。これは天台宗の根本経典・法華経が二十八品(ほん=章)から成ることになぞらえたものと説明されます。寺の数からして、お経の章立てなのです。
3. 龍王から千の燈を受ける 五辻の岩屋で修行していると、その徳に感じた海の龍王が千の燈を献じました。最初の寺・千燈寺の名は、ここから来たと伝わります(第9章の行ってみようで歩いたあの場所です)。
4. 六万九千体の仏像を造る 生涯に六万九千体の仏像を造ったとされます。この数も、法華経の全文字数(約六万九千字)に重ねる説明を見かけます。だとすれば、二十八寺と六万九千体は半島全体を一部(いちぶ)の法華経に見立てる設計図――谷々が章になり、仏たちが文字になる、ということになります。数字のきっちり具合は「後から整えられた物語」の香りでもありますが、その見立ての壮大さには、うなるほかありません。
5. 鬼会式六巻を授け、修正鬼会を始める 二十八寺の僧を集めて「鬼会式六巻」を授け、修正鬼会を始めたと伝わります。国東の鬼が払われる悪ではなく福を配る仏の使いなのは、この行事の生みの親が仁聞だから、というわけです。
6. 枕の岩屋で入寂する すべてを終えた仁聞は、最初の寺・千燈寺の奥の院「枕の岩屋」で入寂したと伝えられます。旧千燈寺跡の五輪塔群の中には、いまも仁聞の墓と伝わる国東塔がひっそりと立っています。始まりの場所で生涯を閉じる――物語として、じつに美しい円環です。
7. 死後もあらわれる 物語はここで終わりません。斉衡2年(855)、修行者の前に仁聞があらわれ、峰々をめぐる道を自ら示したと伝わります。峯入りの原点です。さらに現代でも、修正鬼会の鬼は仁聞たちの化身とも語られます。つまり仁聞は、年に一度、松明を掲げていまも人々の前にあらわれ続けていることになります。
今日のねほりはほり
- 伝承の柱は『八幡宇佐宮御託宣集』(1313年、宇佐の学僧・神吽編)。その源泉を『仁聞菩薩朝記』に見る研究もある
- 縁起が書かれたのは開山伝承から600年後。由緒が土地と共同体を守る鎧だった時代の、現役の実務だった
- 逸話は御許山の出現から枕の岩屋の入寂まで、みごとな起承転結。そして死後も855年の示現、現代の修正鬼会と、あらわれ続けている
ところで――仁聞を「化身」として送り出した本体、八幡神。 この神様、じつは正体をめぐる謎が仁聞以上に深いのです。 次回、根掘り葉掘りしていきます。
ご意見・ご感想を送る
いただいたコメントはページには公開されません。管理人に直接届きます。