11. 仏の山、旅の山

戦国の炎から立ち上がった六郷満山は、江戸の世にふたたび静かな広がりを見せていました。 けれども、明治のはじめに訪れた廃仏毀釈の嵐はもう一度その山々を揺るがしました。

引き離された神と仏

宇佐神宮の別当寺であった弥勒寺は廃され、長く結びついてきた神と仏の関係は断たれました。 山の寺々の多くは寺号を返上し、仏像を失い、修験の道は閉ざされました。

かつて奈良の昔、国家の理屈が神と仏を結びつけました。 そして今度は、国家の理屈が二つを引き離したのです。 千年あまり続いた神仏習合は、制度の上ではここで幕を閉じました。

しかし、制度は断たれても村人たちは祈りをやめませんでした。密かに仏像を守り祭りの形を変えて祈りをつなぎました。

地域の手による再生

やがて明治の後半、排仏の熱が冷めるとともに人々は再び山へ戻り始めます。 両子寺では地元の篤信家によって堂宇が再建され、天念寺でも護摩と修正鬼会がよみがえりました。 その復興はもはや権威や制度によるものではなく地域の手による祈りの再生でした。 六郷満山はこのとき修行の山から人々が訪れ祈る“旅の山”へと静かにかたちを変えていったのです。

人びとが選び取る信仰へ

明治という時代は、古い制度や権威が問い直された時代でもありました。 六郷満山もまた、その中で「守られる信仰」から「人びとが選び取る信仰」へと姿を変えていきます。

山の寺では修験の道を閉ざされた僧や信者たちが新しい形の布教や講中活動をはじめます。 かつての峯入りや護摩修行は、民俗行事として姿を変えながら続けられ、 それに合わせて参詣道も整えられました。 巡礼は修行のためだけでなく学びと祈りを分かち合う“旅”となっていきます。

仏を祀る山から、仏を尋ねる山へ

こうして六郷満山は仏を祀る山から仏を尋ねる山へ――。 信仰と旅、祈りと学びがひとつに重なる、新しい時代のかたちが生まれつつありました。 その後、この国は戦争というもうひとつの嵐に見舞われますが、戦のあと人々はまた山へと帰ってきます。 荒れた道を整え失われた祭りをよみがえらせ、六郷満山は再び「祈りのある風景」を取り戻していきました。

祈りの文化、「国東らしさ」

祈る人、訪ねる人、学ぶ人――。 それぞれの思いが交わりながら、この半島の山々は“仏の山”、そして“旅の山”として生き続けています。

仏が残り、祭りが続き、峯入りの道が今も山中に刻まれているのは、 火山が生んだ半島に始まり、海を越えた交流、神と仏の出会い、 そして幾度もの試練を経て受け継がれてきた祈りの文化があるからです。

それこそが、いま私たちが「国東らしさ」と呼んでいるものなのかもしれません。