前編では、荘園から納められる年貢や労役に支えられ、六郷満山の寺々が大きな宗教圏へ成長していく様子を見てきました。 しかし、その荘園を実際に管理し、土地と人びとを武力で守る武士たちも、しだいに力を伸ばしていました。
寺社と武士は、初めから対立していたわけではありません。 武士は寺社に所領を寄進し、戦勝や一族の安泰を祈らせました。 寺社にとっても、所領を守る武士の力は必要でした。 両者は支え合いながら、ときには土地や権利をめぐって争う関係でもあったのです。
武士たちが仰いだ八幡神
八幡神は、平安時代の終わりごろから、清和源氏をはじめとする武士たちにも篤く信仰されるようになりました。 源頼朝が鎌倉へ入った治承4年(1180)、源氏ゆかりの八幡宮を現在の鶴岡八幡宮の地へ遷すと、八幡信仰は武家社会に広く浸透していきます。
宇佐の八幡神は、国家を守る神であると同時に、武士にとっては武運を祈る「弓矢八幡」となりました。 神仏習合によって仏の姿も持ち、さらに武士の守護神としても仰がれる。 八幡神は、時代ごとに新しい役割を重ねながら、その信仰を全国へ広げていったのです。
寺社も領国支配のなかへ
鎌倉時代から室町時代にかけても、六郷満山の寺々は宇佐神宮との結びつきを保ちながら活動を続けました。 一方で、土地をめぐる権利関係は複雑になり、現地を支配する武士の力はしだいに強まっていきます。
戦国時代になると、各地の大名は領内の土地と人びとを一つの仕組みのもとに置こうとしました。 寺社も、その動きの外にいることはできませんでした。
戦国大名たちも神仏を信じ、寺社に戦勝や領国の安泰を祈らせています。 けれど、信仰しているからといって、すべての寺社を無条件に守ったわけではありません。 土地を持ち、年貢を集め、ときには武装した人びととも結びつく寺社は、保護すべき祈りの場であると同時に、服従を求める相手でもありました。
織田信長による比叡山延暦寺への攻撃や、石山本願寺との長い対立は、そのよく知られた例です。 寺社は宗教施設であるだけでなく、土地と人びとを抱える政治的・経済的な勢力でもあったため、戦国の争いに巻き込まれていったのです。
大友氏と六郷満山
豊後では、鎌倉時代以来、大友氏が勢力を広げていました。 大友氏と寺社の関係も、初めから一貫して敵対的だったわけではありません。 寺社は大友氏のために祈祷を行い、大友氏も寺領を認めるなど、両者は長く結びついていました。
しかし、戦国時代の争乱と領国支配の進展のなかで、その関係は揺らいでいきます。 所領をめぐる争いや、大友氏内部の対立、さらに島津氏との戦いが重なり、国東半島も争乱に巻き込まれました。
大友宗麟(おおともそうりん)はキリシタン大名として知られています。 天正6年(1578)に洗礼を受けた宗麟がキリスト教へ傾いたことも、従来の寺社との関係に影響を与えたと考えられます。 ただし、国東半島の寺々がいつ、だれの命令で、どのように破壊されたのかを詳しく伝える同時代の記録は多くありません。 寺社の衰退を、宗麟の信仰だけで説明することはできないのです。
炎に包まれたと伝わる伽藍
六郷満山の寺々には、この時代の焼き討ちにまつわる伝承が数多く残っています。 実際に戦火で失われた堂宇もあったと考えられますが、伝承のすべてを史実として確かめられるわけではありません。 後世の記録や語りのなかで、異なる時期の争乱が一つの出来事としてまとめられた可能性もあります。
また、戦国時代の終わりには、大友氏と島津氏の戦いが豊後各地を戦場にしました。 寺々の焼失や衰退のすべてを、大友宗麟による宗教政策だけに帰することはできません。
千燈寺も、大友宗麟の兵火によって多くの建物を失ったと伝えられる寺の一つです。 かつて山腹には堂や僧坊が並んでいたとされますが、焼失の詳しい経緯や範囲は分かっていません。 いま山中に残る石垣や礎石が、かつてそこに大きな寺院が営まれていたことを伝えています。
荘園の終焉 ― 石は残った
戦乱のなかで失われたのは、堂塔だけではありませんでした。 寺々を支えてきた中世の荘園の仕組みも、武士による領国支配が進むなかでしだいに失われていきます。 土地から年貢を集める権利が武士の支配下へ組み込まれると、寺々はかつての規模を維持する経済的な基盤を失っていきました。
こうして六郷満山は大きな打撃を受けました。 しかし、その歴史がここで終わったわけではありません。 寺を守る僧や、祈りを受け継ぐ村人たちは、失われた堂を少しずつ建て直していきました。
木造の堂宇の多くが失われても、石垣や石塔、石仏は山中に残りました。 第1編から見てきた国東の「石の文化」が、ここでは失われた六郷満山の記憶を未来へつなぐものとなったのです。
悲劇ののちに、六郷満山は静かな再生の時代へと歩み始めます。
行ってみよう:草に還った大伽藍 ― 旧千燈寺跡
本編で触れた千燈寺。 伝承では、仁聞(にんもん)菩薩が六郷満山で最初に開いた寺の一つとされ、多くの末寺や末坊を擁して「西の高野山」とも称された大寺院でした。
寺号の由来にも伝説があります。 仁聞が近くの岩屋で修行していたとき、海の龍王がその徳を感じ、千の燈を献じたことから「千燈寺」と呼ばれるようになったと伝えられています。
その大伽藍は、戦国時代に大友宗麟の兵火で失われたと伝わります。 ただし、焼き討ちの詳しい時期や経緯、失われた建物の範囲については、はっきり分かっていません。
いま旧千燈寺跡を訪ねると、参道沿いにいくつもの坊の跡が続きます。 巨石を組んだ石垣の上には、かつて建物があったことを示す平坦な土地や礎石が残されています。 再建された奥の院を除けば、かつての大伽藍を思わせる木造の堂は見あたりません。 けれど、石垣と礎石だけが残る山腹に立つと、そこに並んでいた堂や僧坊の姿が想像されます。
奥の院からさらに進むと、林のなかに千基を超えるといわれる五輪塔や石塔の群れが現れます。 いつ、だれが、どのような経緯でこれらすべてを造立したのかは分かっていません。 そのなかには、仁聞の墓と伝えられる国東塔もひっそりと立っています。 長い年月にわたって、この場所が祈りの場であり続けたことを、石の群れが静かに伝えています。
尾根をさらに登ると、山上の岩屋に祀られた五辻不動(いつつじふどう)にたどり着きます。 古くから修験の場として信仰されてきた霊場です。 伝承では、仁聞が龍王から千の燈を受けたのは、この岩屋で修行していたときのことだったとされます。 史実として確かめることはできませんが、この道を登りきった先には、千燈寺の始まりを語る伝説の舞台が待っています。
車でのアクセスや駐車場、徒歩ルートと所要時間は、国東市観光協会のアクセス&観光マップが便利です。
旧千燈寺跡・五辻不動 アクセス&観光マップ
(提供:(一社)国東市観光協会/クリックで拡大)
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