9. 戦国の試練 ― 絶頂の六郷満山

前の記事では、律令制の崩壊後、寺社が「経済主体」として地方社会に根を下ろし荘園制度が広がってきたころについて書きました。 そこに登場したのが軍事や治安を担う武士階級です。

軍神・八幡——武士の時代への適応

宇佐神宮は、むしろこの時代の潮目をいち早く察知し八幡神の“軍神”としての側面を前面に押し出すことで 武家の信仰を取り込むことに成功しました。その象徴が源頼朝のあつい八幡信仰です。鎌倉幕府の守護神として 「鶴岡八幡宮」が創建されると宇佐の八幡神は名実ともに全国武士の守護神となることに成功しました。 しかし、この適応はすべてを守るものではありませんでした。

絶頂、そして新しい権力との軋轢

こうして宇佐神宮と六郷満山は宗教と経済が結びついた広域的なネットワークを形成し、まさに絶頂期を迎えます。 しかし、その繁栄はやがて新たな政治勢力との軋轢を生むことになります。戦国時代に入ると状況は変化しました。

消えていく神仏への畏怖

全国的には領国支配を徹底するために経済と軍事の一元化を進めた武将たちが寺社の独立的な経済・政治ネットワークを 排除するようになります。こうした動きは全国的な流れでもありました。織田信長による延暦寺焼き討ちや 石山本願寺との対立はその象徴的な出来事として知られています。

かつて古代の為政者たちは、神仏の力が現実を動かすと本気で信じ、祟りを恐れていました。 神意を確かめずに戦を起こすことなど、考えられなかった時代があったのです。 しかし戦国の武将たちにとって、寺社はもはや祟る存在ではなく、統治の障害にもなりうる政治・経済勢力の一つでした。 神仏への畏怖——寺社を千年守ってきた見えない盾が、この時代、静かに消えていきました。

信長の延暦寺焼き討ちや高野山攻めの徹底ぶりは、しばしば宗教への感情的な憎悪のように語られます。 けれど、畏怖という色眼鏡の外れた武将たちの目に寺社がどう映ったかを想像してみると、話はもっと現実的です。 壮麗な伽藍、金色の仏像、蔵に積まれた宝物——それらは客観的に見れば、明らかに破格の富の集積でした。 自分たちは苦労して民を治め、戦のたびに血を流している。 その傍らで、課税も兵役も免れたまま、富を集め続ける集団がある——。 武将たちの行動には、宗教への反発というよりも、 統治者としての正当な取り分を取り戻す戦い、という側面があったと言えるのかもしれません。

大友宗麟と寺社勢力の解体

この全国的な潮流は遠く豊後の地にも波及しました。そこに現れたのが大友宗麟(おおともそうりん)です。 大友宗麟はキリシタン大名として知られていますが、実際には「既存の宗教勢力の再編」を旗印に既存の寺社勢力の 解体を進めました。大友宗麟の政策は確かに過激な面を持っていましたが単純な宗教排除とは異なります。 宗麟は当初、多くの寺社を保護し六郷満山の寺院群も大友家の祈祷所として庇護下に置かれていました。

しかし、領国経営を効率化しようとする中で膨大な荘園経済を持つ寺社勢力が統治上の障害として映るようになったのでしょう。 その結果として、キリスト教布教の影響も重なり従来の寺社勢力を大きく整理する方向へと進んでいった――というのが実像に近いようです。

炎に包まれる伽藍

六郷満山の寺々には、この時代の焼き討ちの伝承が数多く残っています。 実際に戦火に呑まれた伽藍もあったに違いありません。 ただし、正確な記録はほとんど残っておらず、伝承のなかには根拠の確かめられないもの、 後世の脚色が混じったものも含まれていると見るべきでしょう。 また戦国の末期には、大友と島津の争いが豊後全土を戦火に巻き込んでもいます。 焼失のすべてを宗麟の宗教政策ひとつに帰することはできません。

地域文化

千燈寺のような中枢寺院では多くの堂塔が山腹に立ち並んでいました。しかしそれらの大きな木造建築は戦火に弱く、 一度火が放たれると長い年月をかけて築かれた伽藍は瞬く間に炎に包まれたと伝えられています。

一方で岩戸寺には僧たちが背後の城砦へ移って抵抗したという伝承が残っています。 また天念寺では、山中に分散していた僧坊や修験の拠点が焼失を免れその後の再建につながったとも語られています。

荘園の終焉 ― 石は残った

戦火とともに、もう一つの土台も崩れていきました。 寺々を千年にわたり支えてきた荘園の仕組みそのものが、戦国大名の領国支配のなかで終わりを迎えます。 たとえ戦火を免れた寺にも、かつての規模の伽藍を維持する力はもう残っていませんでした。

こうして六郷満山は大きな打撃を受けました。しかし、その歴史がここで終わったわけではありません。 焼け落ちた堂塔の陰で僧たちや村人たちは信仰を守り続けました。

石段や石仏は焼け残り火では失われないものとして、いまも山の静寂の中に往時の祈りを とどめています。国東の大地が生んだ「石の文化」こそ、六郷満山の記憶を 未来へとつなぐ媒介となったのです。

悲劇ののちに、六郷満山は静かな再生の時代へと歩み始めます。


行ってみよう: 草に還った大伽藍 ― 旧千燈寺跡

本編で触れた千燈寺。伝承では、仁聞が六郷満山でいちばん最初に開いたとされる寺の一つで、 最盛期には16の末寺を従え「西の高野山」とも称された、満山の中核をなす巨刹でした。 寺号の由来からして伝説的です——仁聞が近くの岩屋で修行していると、 その徳に感じた海の龍王が、千の燈を献じた。「千燈寺」の名はここから来たと伝わります。

その大伽藍は、天正年間の焼き討ちで失われたと伝えられます。 いま旧千燈寺跡を訪ねると、 参道ぞいに、いくつもの坊の跡が続きます。巨石を組んだ石垣の上には護摩堂の跡。 再建された奥の院の堂宇をのぞけば、木造の建物はひとつも見あたりません。 けれど、中途半端に復元されていないぶん、かえって想像力をかき立てられます。 石垣と礎石だけが残る山腹に立つと、ここに立ち並んでいた堂塔の姿が、 本編で読んだ炎の記憶とともに浮かんでくるはずです。

奥の院からさらに進むと、林の中に、無数の五輪塔の群れが現れます。 江戸のはじめ、人々がこの寺の復興を記念して奉納したものが、長い年月をかけて積み重なったもので、 その数は千基に及ぶといわれます。なかには、仁聞の墓と伝えられる国東塔もひっそりと立っています。 焼け落ちた寺を、人々がどれほど大切に思い続けたか——石の群れが静かに語っています。

尾根をさらに登りつめると、山頂近くの巨大な岩屋、五辻不動(いつつじふどう)にたどり着きます。 古くから修験の場だったと考えられる霊場です。そして伝承では、仁聞が龍王から千の燈を受けたのは、 まさにこの岩屋で修行していたときのこと。 つまりこの道を登りきった先には、物語の始まりの場所が待っているのです。

車でのアクセスや駐車場、徒歩ルートと所要時間は、国東市観光協会のアクセス&観光マップが便利です。

旧千燈寺跡・五辻不動 アクセス&観光マップ

旧千燈寺跡・五辻不動 アクセス&観光マップ
(提供: (一社)国東市観光協会/クリックで拡大)