前回紹介したように、宇佐では神と仏が結びつき、神仏習合という新しい信仰の形が生まれました。 しかし、この時点ではまだ「六郷満山」は存在していません。
開山の伝承と、実際の歩み
のちの時代、六郷満山はみずからの始まりをこう語るようになります。 「養老2年(718)、八幡神の化身である僧・仁聞(にんもん)菩薩が、半島の谷々に28の寺を開いた」と。 前回の結びで触れた、出家した八幡神が国東の峰々を修行の舞台に選んだという伝承です。 ただし、これは六郷満山が大きな力を持った後の時代に、みずからの由緒を語るために 整えられていった縁起、いわば起源の物語です。 その物語がなぜ、どのように生まれたのかは後の章に譲るとして、 実際の歩みは、もう少しゆっくりと、しかし着実に進んでいきました。
弥勒寺の傘の下で ― ゆるやかな連合
国東半島には多くの寺院や修行場がありましたが、それぞれが独立して活動していたにすぎませんでした。 では、それらはどのようにして一つの共同体へとまとまっていったのでしょうか。
当時、仏教側の中心となっていたのは宇佐神宮の別当寺である弥勒寺でした。 神を祀る宇佐神宮に対し、弥勒寺は仏教儀礼を担う存在です。 国東半島各地の寺院や修行者たちは、この弥勒寺を拠点としながらゆるやかなつながりを持っていました。 いわば、宇佐神宮と弥勒寺という大きな傘の下に、山の寺々が思い思いに集まっている——そんな姿です。
ただし、それはまだ後の六郷満山のような組織ではありません。 共通の信仰と修行を持ちながらも、それぞれの寺院が独自に活動する連合体のようなものでした。 そして知っておきたいのは、この傘がこのあとの物語を通じてずっと敷かれたままだということです。 半島の寺々を経済の面でも信仰の面でも支えるこの土台の上に、六郷満山の歴史は積み重なっていきます。
山の仏教、天台の風
ちょうどその頃、都の仏教も大きく姿を変えつつありました。
奈良時代の仏教は国家のために祈る国家仏教でしたが、平安時代になると、 山に入って修行することを重視する新しい仏教が力を持ち始めます。 その代表が最澄の開いた「比叡山延暦寺」、天台宗です。
天台宗は山に入り修行することを重視し、仏の悟りを実践によって求めようとしました。 この考え方は、もともと山々を修行の場としていた国東半島の僧たちにとって非常に相性の良いものでした。
とはいえ、ある日を境に半島の寺々がいっせいに天台宗へ衣替えした、というわけではありません。 天台の教えや修行の作法は、山から山へ、僧から僧へ、長い時間をかけて風のように染み込んでいきました。 弥勒寺の傘の下というありかたはそのままに、山の暮らしの中身が少しずつ天台の色を帯びていったのです。
六郷の編成と惣山の合議
山岳修行を行う僧侶が増え、寺院どうしの交流も盛んになるにつれ、 修行の作法や儀礼を共有しながら互いに協力する仕組みが必要になっていきました。
その交流のなかから、新入りの僧が、仁聞が開いたと伝わる峰々をひとめぐり歩き通す修行も育っていきます。 伝承では、平安のはじめ、修行者の前に仁聞みずからが現れて、その巡る道を示したといいます。 この峰の道を歩き通してはじめて、一人前の修行者として認められる—— のちに「峯入り」と呼ばれ、形を変えながら現代まで続く修行の原点です。
やがて寺院は六つの地域ごとにまとまり、それらを総称して「六郷」と呼ぶようになります。 さらに寺院ごとの役割も整理されていきました。
- 本山(指導と統括)
- 中山(修行と教育)
- 末山(地域の信仰活動)
という役割分担が生まれ、多数の寺院が一つの体系として機能するようになります。
六郷満山の本山・中山・末山のひろがり
(所在の伝わる24か寺、おおよその位置。
寺院の所在は『国東六郷満山』(木星舎)ほかによる。
標高データ: 国土地理院/クリックで拡大)
興味深いのは、その運営方法でした。 多くの宗教組織が強力な中心を持つのに対し、六郷満山は一人の絶対的指導者によって支配されていたわけではありません。 全体の調整や協議の場である「惣山」を中心に、各郷や各寺院の代表者たちが 話し合いを重ねながら全体を運営する仕組みが発達していきます。
そして同じ頃、六郷の寺々は比叡山延暦寺の末寺の列にも連なっていったと考えられています。 自分たちで話し合って決める自治の仕組みと、天台宗という都の大きな看板。 この二つは、どちらかがどちらかを打ち消すことなく、並んで育っていったのです。
こうして人々は自分たちを単なる寺院の集まりではなく、国東半島全体を一つの修行の場とする 「六郷満山」という共同体として捉えるようになっていったと考えられています。
切り替わらないまま、進化する
ここまでの歩みを振り返ると、六郷満山の成り立ちは三つの層の重なりとして見えてきます。
一番下には、宇佐神宮と弥勒寺の傘——半島の寺々を支える経済と信仰の土台。 その上に、長い時間をかけて染み込んだ天台の風。 そして一番上に、六郷の編成と惣山の合議という自前の運営。
大切なのは、新しい層が加わっても、前の層が消えなかったことです。 弥勒寺の支えを手放さず、話し合いによる独立性をある程度保ちながら、天台の組織や権威も受け入れる。 六郷満山は、時代ごとの環境の変化とバランスを取りながら、層を重ねて進化していった共同体でした。
その同居ぶりを、一つの山の名前が今に伝えています。 惣山——つまり自治の中心となった山が名乗ったのは「西叡山」、西の比叡山という名でした。 自分たちの合議の座に、天台の総本山の名を冠する。 二つの層が一つの山の上に重なっていたことを、この名前ほど雄弁に語るものはありません。
こうして宇佐神宮と六郷満山という二つのネットワークが、互いに支え合いながら発展していくことになります。 次回は、この重なりを一番下で支えた荘園の経済に目を向け、六郷満山が半島全体を 包み込むまでに成長していく姿を見ていきましょう。
行ってみよう: 六郷満山を束ねた山 ― 西叡山高山寺
本編で紹介した「惣山」。その役割を最初に担ったと伝えられるのが、 田染盆地の西にそびえる西叡山(さいえいざん)の高山寺(こうざんじ)です。
「西叡山」という山の名は、都を守る比叡山に対して「西の叡山」を名乗ったもの。 京の比叡山、江戸の東叡山(上野寛永寺)と並んで「日本三叡山」に数えられたといい、 天台の教えとともに歩んだこの山の誇りがうかがえます。 平安時代には、六郷満山の65の寺々を束ねる惣山として満山の頂点に立ちました。
その後、惣山の役割は鎌倉時代に長安寺へと移り、 山上の高山寺の伽藍も、時代の流れの中で失われていきました。 現在の高山寺はのちに再興されたもので、今もこの地に法灯を伝えています。
西叡山は、第4章で歩いた田染荘の谷を西から見下ろす山です。 麓に広がる荘園の実りと、山の上の祈りの世界。 そのふたつがひとつながりだったことを、この山の眺めは教えてくれます。
詳しくは豊後高田市の紹介ページもご覧ください。
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