国東物語 ― 史料でたどる国東1300年

2. 海がはぐくむ地域文化 ― 豊の国と宇佐の神

国東半島に人びとの足跡が現れるのは、旧石器時代の後半ごろ。縄文時代には、この地域にも人びとが暮らしていました。 温暖な瀬戸内の気候と豊かな海の幸、山の幸。そして海の向こうの姫島には、石器の材料となる黒曜石がありました。

山に守られ、海に開かれたこの土地は、人びとが暮らすための恵みに富んでいました。 けれどもこの頃の国東半島は、列島各地に点在していた数多くの暮らしの場の一つでした。

海を渡ってきた人と技術

弥生時代になると、朝鮮半島から海を渡ってきた人びととともに、稲作や金属器などの新しい技術が少しずつ伝わりました。 それは一度きりの出来事ではありません。何世代にもわたって人が行き来し、技術や知識が運ばれ、 在地の人びとの暮らしと混じり合いながら、列島各地に新しい社会が形づくられていきました。

当時の海は、人びとを隔てる境界ではなく、人や物、知識を運ぶ道だったのです。

列島に芽生える地域文化圏

新しい技術や文化は、列島全体へ一様に広がったわけではありません。 それぞれの土地の自然や、それ以前から続いていた暮らし、祭祀と結びつきながら、 地域ごとに異なる社会や文化を育てていきました。

やがて列島各地には、独自の祭祀や生活様式を共有するまとまり、いわば「在地文化圏」が形づくられていきます。

大陸文化の列島への広がり

海を渡った文化は列島各地に広がり、それぞれの土地で在地文化圏を育てた
(地図データ: Natural Earth/クリックで拡大)

列島側の社会が育つにつれ、海を越えた交流も、大陸からの一方的な技術や文化の流入ではなくなっていきました。 黄海や東シナ海を行き交う人びとは、それぞれの土地の信仰や技術、習慣を持ち寄りながら交流を重ね、 日本列島もまたその広い文化交流圏の一員となっていったのです。

豊の国と御許山への信仰

九州北部に近く、瀬戸内海と豊後水道を結ぶ位置にある宇佐や国東半島も、早くからこの交流の波を受けました。 後に「豊の国」と呼ばれるこの地域では、いくつもの共同体が海や川を通じて行き来し、 在地の有力者たちがそれぞれの土地の祭祀を担っていました。

御許山のような目立つ山々も、古くから人びとが祈りを向ける場所だった可能性があります。 後世、御許山は宇佐神宮にとって特別な神域となっていきました。

豊の国と国東半島

周防灘をかこむ豊の国——海と平野がひとつづきに国東半島へつながる
(宇佐神宮の位置は現在のもの。標高データ: 国土地理院/クリックで拡大)

神の意思をうかがう——祭祀と託宣

山そのものに神の存在を感じ、祈りを捧げる。そんな山への信仰は、やがて神を祀る「祭祀」として 人々の暮らしに深く結びついていきます。では、当時の祭祀とはどのようなものだったのでしょうか。 弥生時代から古墳時代にかけて、人々は土地を開き、村をつくり、それぞれの地域で暮らしを築いていきました。 農業、漁業、灌漑、交易。共同体が大きくなるほど、人々は日々さまざまな判断を迫られるようになります。 そんなとき、人々は神に問いかけました。 もちろん、神様が直接話した様子を誰かが記録していたわけではありません。 しかし、人々は祭祀を通して神の意思をうかがい、その答えを共同体の進むべき道として受け入れていたのです。

こうして祭祀の場でうかがった神の意思は、神の言葉、すなわち「託宣(たくせん)」として人々に授けられました。 私たちは「託宣」と聞くと、占いのようなものを想像してしまいます。 けれども古代の人びとにとって、神の意思は共同体の未来を左右する重い意味を持っていました。 祭祀を担う人を通して示された神の言葉を受け入れることで、人びとは大きな決断に意味を与え、進む方向を一つにすることができたのでしょう。

その意味で託宣は、単なる占いではなく、古代社会の意思決定を支える仕組みでもありました。

八幡神、姿を現す

なかでも宇佐は、豊かな平野を背後にもち、海を通じて瀬戸内へ、 陸路を通じて九州各地へとつながる場所にありました。 人や物が行き交うこの土地で、宇佐の神は「託宣する神」として次第に存在感を強めていきます。

八幡神がいつ、どのように生まれたのかは、はっきり分かっていません。 後世にはさまざまな由来が語られましたが、歴史の上では、宇佐の地で託宣を発する神としてしだいに姿を現します。 やがて八幡神の言葉は地域の枠を越え、遠く離れた朝廷の判断にまで影響を与えるようになりました。

今では日本全国で親しまれている八幡さまの信仰は、ここ宇佐から広がっていったのです。

この時代の日本列島には、まだ一つの「日本」があったわけではありません。 それぞれの地域が、それぞれの海や山と向き合いながら独自の文化を育てていました。 国東半島もまた、こうした豊の地域文化と海の交流を土台として、 後の宇佐神宮、そして六郷満山の世界へとつながっていきます。

やがて、列島の中央で勢力を伸ばし始めた大和の政権も、この「語る神」に耳を傾けるようになります。


行ってみよう: 宇佐神宮の神域 御許山

現在の宇佐神宮から南へ約6kmのところに、御許山(おもとさん)があります。 御許山は、後世に宇佐神宮の重要な神域となった山です。

「蓑虫山人絵日記」に描かれた御許山(おもとさん)

「蓑虫山人絵日記」に描かれた御許山(出典: 宇佐市)

現在、山頂には宇佐神宮の奥宮である大元神社(おおもとじんじゃ)が鎮座しています。 ここは、宇佐神宮の主祭神の一柱である比売大神が最初に降臨した神域と伝えられています。

山中には、かつて御許六坊と呼ばれる寺院群が置かれ、宇佐神宮の神宮寺であった弥勒寺と結びつきながら栄えました。 御許山は、宇佐における神仏習合を支える祈りと修行の山でもあったのです。

御許六坊と国東半島の六郷満山は別の寺院組織でしたが、どちらも宇佐を中心とする広い信仰世界の中にあり、 僧侶や修行者の往来を通して関係を持っていたと考えられます。