この半島にはじめて人類がおとずれたのは旧石器時代の後半くらい、縄文時代にはこの地域にも定住していたそうです。 瀬戸内海の温暖な気候、豊富な海の幸、山の幸。その上、向かい側の島には貴重な石器の材料の黒曜石が。 この時代の国東半島は縄文社会の憧れの居住地だったかもしれない。 とは言え、当時のこの地域は日本列島に広がるたくさんの縄文の人々の居住地の一つにすぎませんでした。
海を渡ってきた人と技術
この地域に大きな変化をもたらしたのは、弥生時代に朝鮮半島からやってきた人々でした。 彼らこそが弥生時代を切り開いた、といってもよいでしょう。稲作や鉄器、暦や気象の知識、 そして集団作業を支える協調行動。これらは当時の「最新技術」であり、島伝いの航海で列島にもたらされました。
列島に芽生える地域文化圏
この頃にはすでに列島各地で、独自の祭祀や生活様式を持つ文化のまとまり、いわば「在地文化圏」が芽生えていました。 そこへ稲作と鉄器が加わり、初期には九州北部から始まり、弥生時代には「瀬戸内」「出雲」「日向」「東海」「畿内」へ、 古墳時代にはさらに「畿内」「吉備」「出雲」「豊」「日向」「関東」「東北」へと広がり、 それぞれの在地文化と混じり合って独自の文化圏を形成していきました。
海を渡った文化は列島各地に広がり、それぞれの土地で在地文化圏を育てた
(地図データ: Natural Earth/クリックで拡大)
列島側のそんな文化の発展とともに、海を越えた人びとの交流もいつしか大陸からの一方的な技術や文化の流入ではなくなっていきました。 黄海や東シナ海を行き交う人びとは、それぞれの土地の信仰や技術、習慣を持ち寄りながら交流を重ね、 日本列島もまたその広い文化交流圏の一員となっていったのです。
豊の国と御許山への信仰
自然な流れとして、九州北部と隣接する宇佐や国東半島でも早い時期からこの波を受け入れました。 瀬戸内海と豊後水道を結ぶ海上交通の要衝にあった豊の国では、在地の豪族たちが各地の祭祀を担っていました。 後に宇佐神宮の神体山となる御許山も、この頃にはすでに神聖な山として人々の信仰を集めていたと考えられています。
周防灘をかこむ豊の国——海と平野がひとつづきに国東半島へつながる
(宇佐神宮の位置は現在のもの。標高データ: 国土地理院/クリックで拡大)
神の意思をうかがう——祭祀と託宣
山そのものに神の存在を感じ、祈りを捧げる。そんな山への信仰は、やがて神を祀る「祭祀」として 人々の暮らしに深く結びついていきます。では、当時の祭祀とはどのようなものだったのでしょうか。 弥生時代から古墳時代にかけて、人々は土地を開き、村をつくり、それぞれの地域で暮らしを築いていきました。 農業、漁業、灌漑、交易。共同体が大きくなるほど、人々は日々さまざまな判断を迫られるようになります。 そんなとき、人々は神に問いかけました。 もちろん、神様が直接話した様子を誰かが記録していたわけではありません。 しかし、人々は祭祀を通して神の意思をうかがい、その答えを共同体の進むべき道として受け入れていたのです。
こうして祭祀の場でうかがった神の意思は、神の言葉、すなわち「託宣(たくせん)」として人々に授けられました。 私たちは「託宣」と聞くと、占いのようなものを想像してしまいます。 けれども古代の人々にとって託宣とは、共同体の未来を決めるための大切な意思決定の場でした。 各地から集まる経験や知恵、祭祀を担う人々の見識、そして共同体の願い。 それらを神の言葉として受け止めることで、人々は一つの方向へ歩むことができたのです。 その意味で託宣は、単なる占いではなく、古代社会を支える知恵と合意形成の仕組みでもありました。
八幡神の誕生
なかでも宇佐は、豊かな平野を背後にもち、海を通じて瀬戸内や畿内へ、 陸路を通じて九州の各地へとつながる場所にありました。 その交流の先には、朝鮮半島や大陸から伝わってきた新しい文化や技術もありました。 海を渡ってきた人々の話、交易に携わる人々が持ち込む情報、 各地の豪族が伝える情勢、農耕や土木の新しい知恵、山や海で暮らす人々が読み取った自然の変化。 宇佐の祭祀の場には、さまざまな経験と知識が集まっていたのかもしれません。 そして、それらが祭祀を担う人々によって受け止められ、託宣という形で 地域社会へ返されていた――そう考えることもできるでしょう。
人々は豊作を祈り、洪水を恐れ、争いを避け、ときには戦いにも備えました。 その一つ一つに神意が求められ、「宇佐の神はよく応えてくださる」という評判は、 やがて周囲の豪族たちにも広がっていったのかもしれません。 こうした地域社会の中から、何世代にもわたる信頼の積み重ねとともに、 長い時間をかけて育ってきたのが宇佐の八幡神です。 今では日本全国で親しまれている八幡さまの信仰はここ宇佐から広がり、 ついには朝廷までもがその託宣を仰ぐほどの存在へと育っていきました。
この時代の日本列島には、まだ一つの「日本」があったわけではありません。 それぞれの地域が、それぞれの海や山と向き合いながら独自の文化を育てていました。 国東半島もまた、豊の国で育まれた信仰と文化を土台として、 後の宇佐神宮、そして六郷満山の世界へとつながっていくのです。
行ってみよう: 宇佐神宮の源流 御許山
本編で紹介した宇佐神宮ですが、この時代には、 まだ現在のような壮大な社殿があったわけではありません。
信仰の中心は、現在の宇佐神宮から南へ約6kmにある御許山(おもとさん)でした。 当時の人々は、山そのものに神が宿ると考え、この山を神聖な場所として崇めていたと考えられています。
「蓑虫山人絵日記」に描かれた御許山(出典: 宇佐市)
現在、山頂には宇佐神宮の奥宮である大元神社(おおもとじんじゃ)が鎮座しています。 ここは、宇佐神宮の主祭神の一柱である比売大神が最初に降臨した神域と伝えられています。
この御許山は、その後の国東半島の歴史においても特別な場所であり続けました。 山中にはかつて御許六坊と呼ばれる寺院群が置かれ、宇佐神宮の神宮寺であった弥勒寺の末寺 として栄えます。そして後に六郷満山が成立すると、その源流となる重要な修行の山となりました。
ご意見・ご感想を送る
いただいたコメントはページには公開されません。管理人に直接届きます。