国東物語 ― 史料でたどる国東1300年

4. 律令から育った荘園 ― 宇佐・国東の経済基盤

そんなわけで、各地の豪族や有力な神社・寺院も、律令国家の仕組みの中に組み込まれていきました。 国家は戸籍をつくり、土地を把握し、全国から税を集めようとします。

けれども、すべての土地を都から同じように管理できるわけではありません。 中央がつくった制度は、地方の土地と出会うことで、しだいに別の形へ変わっていきました。 その中から育ったのが、荘園です。

全国を一つの制度で覆っても

律令制が始まる以前から、人びとはそれぞれの土地で田畑を開き、用水を整え、集落を維持していました。 地方の豪族たちは、農業や祭祀をまとめる存在として、長いあいだ地域社会に根を張ってきました。

そこへ、全国の土地と人びとを一つの仕組みで把握しようとする律令制度が導入されます。 しかし、土地の姿は地域によって違います。

国東半島では、山から海へ延びる谷ごとに農地と水路、集落がまとまっていました。 水をどこから引くのか。どの斜面を田に変えられるのか。山の資源をどう使うのか。 それを知っていたのは、都からやって来る役人ではなく、その土地に暮らし続けてきた人びとでした。

中央の制度を実際に動かすためにも、在地の力は欠かせなかったのです。

開墾から始まった荘園

八世紀になると、律令国家は耕地を増やすため、新しい土地の開墾を奨励しました。 七四三年の墾田永年私財法では、自ら開いた田を持ち続けることが認められます。

とはいえ、水路を掘り、荒れ地を田に変えるには、多くの人手と食料、道具が必要です。 そこで資金や人を集める力を持つ貴族や大寺院、地方の有力者が開墾を進めました。 こうして生まれた私的な農地が、初期の荘園です。

この段階の荘園は、律令制度を逃れるために勝手につくられた土地ではありませんでした。 むしろ、国家が開墾を促した結果、律令制度の中から生まれたものだったのです。

土地を守る知恵――寄進と荘園

それから時代が下り、平安時代の中ごろを過ぎると、荘園のつくられ方も変わっていきます。

地方で土地を開発した有力者たちは、その土地に対する権利を守るため、 朝廷に近い貴族や大寺社と結びつくようになりました。 その方法が、土地の権利を有力者へ「寄進」することでした。

寄進といっても、土地をすべて明け渡し、立ち去るわけではありません。 都の貴族や大寺社を上位の領主としていただき、その権威によって土地を保護してもらう。 現地を開発した人びとは荘官などとなり、引き続き土地の管理にあたりました。

現代の土地のように、所有者が一人から別の一人へ完全に替わるわけではありません。 一つの土地の上に、都の有力者の権利、現地を管理する人の権利、耕す人の権利が重なる仕組みでした。

いわば、名目上の持ち主を上に置きながら、現地の権利も残す。 中央の権威と地方の実力を組み合わせた、複雑な土地経営の仕組みです。

荘園は「脱税地」だったのか

荘園は、しばしば律令制度の税を逃れるための土地と説明されます。 確かに、寄進地系荘園の中には、国へ納める税を免除され、国司の役人の立ち入りを拒む権利を認められたところもありました。 そうした荘園が増えれば、朝廷が直接把握できる土地と税収は減っていきます。

けれども、そこで暮らす人びとにとっては、荘園になれば負担がなくなるわけではありません。 人びとは、荘園領主へ年貢を納め、さまざまな仕事を負担しました。 国へ納めていたものが、貴族や寺社、現地の荘官へ納めるものに変わっただけ、という面もあります。

荘園は農民のための理想的な自治制度ではありませんでした。 荘園領主や在地の管理者が力を持ち、新たな支配や搾取が生まれることもありました。

一方で、何世代にもわたって同じ土地に関わる人びとが、水路やため池を整え、田畑を開き続ける仕組みにもなりました。 荘園とは、中央の制度が崩れたあとに現れた単なる抜け道ではなく、 中央の権威と地方の土地経営が結びついて生まれた、もう一つの社会の形だったのです。

宇佐宮・弥勒寺と荘園

こうした仕組みは、豊前・豊後一帯にも広がりました。 朝廷から特別な信頼を得るようになった宇佐宮にも、各地の土地が結びついていきます。

宇佐宮の荘園には、神社側に属する「宮方」の荘園と、神宮寺である弥勒寺に属する「寺方」の荘園がありました。 神と仏は、信仰の上だけでなく、その活動を支える経済の面でも一つの大きな組織を形づくり始めていたのです。

宇佐宮と弥勒寺は、その権威によって荘園の権利を支えます。 一方、荘園から納められる米や布、さまざまな産物は、祭祀を行い、僧侶を養い、寺社を維持する力となりました。

宇佐宮が荘園を守り、荘園が宇佐宮と弥勒寺を支える。 そのつながりは、やがて宇佐平野から国東半島の谷々へと広がっていきます。

火山が材料を、荘園が人と時間を

第1章で、火山活動が国東半島に豊富な石と、放射状の谷をつくったことを紹介しました。 けれども、石があるだけでは、磨崖仏や石塔、寺院は生まれません。

岩に仏を刻み、石塔を造り、山中の寺を守り続けるには、僧侶や石工を支える食料と人手、そして長い時間が必要です。 荘園から得られる収穫と、そこに暮らす人びとのつながりは、寺院や祭祀を維持し、 石仏や石塔を生み出す文化的な土台の一つとなりました。

火山が材料を用意し、荘園経済が人と食料と時間を用意する。 その二つが結びつくことで、国東独特の宗教文化が育つ条件が整っていったのです。

宇佐宮と弥勒寺が築いた信仰と経済のつながりは、やがて国東半島の山々で活動する仏教者たちとも結びついていきます。 次回は、その頃この半島で力をつけ始めていた、もう一つの人びと――仏教寺院に関わる人びとの姿を見ていきましょう。


行ってみよう: 今も歩ける荘園 ― 田染荘

国東半島西部の田染荘(豊後高田市)は、十一世紀前半ごろから開発され、 宇佐宮の重要な荘園の一つとして発展しました。

田染荘の農村景観

もちろん、現在目にする棚田や家々が、中世の姿のまま残っているわけではありません。 それでも田染荘小崎では、中世の史料や絵図に記された地名、田の区画、水路、集落の位置を、 今の風景と重ね合わせることができます。

約七百年前の村の骨格が、現在も農業が営まれる風景の中に受け継がれているのです。

田染荘を歩くときは、棚田の美しさだけでなく、水がどこから来て、どの田へ流れていくのか、 集落が農地のどこに置かれ、背後の山や岩屋とどうつながっているのかにも目を向けてみてください。

この地域とその周辺には、六郷満山を束ねたと伝えられる高山寺跡、富貴寺、熊野磨崖仏など、数々の文化資産が残されています。 荘園の農地と、山の寺や岩屋は、別々の観光地ではありません。 田畑が人びとの暮らしと信仰を支え、その信仰が土地を一つの共同体として結びつけてきた、同じ歴史の風景なのです。

Koji Note(三和酒類)の「田染地区の荘園遺産と岩峰を巡る道」では、 ウォーキングコースとともに、各地点の文化的背景も紹介されています。コース地図もリンク先で確認できます。