そんなわけで、各地の豪族や有力な神社・寺院も律令体制の中に組み込まれていきました。 ところが実際に運用が始まってみると、この仕組みは必ずしも地方にとって一方的に不利なものではないことに気づきはじめます。
平野の論理、谷の論理
そもそも律令制が始まる以前から、人々はそれぞれの土地で田畑を開き、用水を整え、集落を維持していました。 地方豪族たちは、その地域の農業や祭祀をまとめる存在として長いあいだ暮らしてきたのです。 そこへ大和朝廷の律令制度が導入されました。 広い平野部では、土地や水をめぐる争いも多く、 中央の権威による統一的なルールは一定の意味を持ちました。
しかし、山間部や半島部では事情が異なります。 谷ごとに生活圏が分かれもともと地域ごとのまとまりが強かったため、 人々は自分たちで土地を守り用水を管理し暮らしを支えることができました。 そのような地域では中央から派遣された役人による画一的な支配よりも在地の豪族による土地経営のほうが 現実に合っていたのです。
土地を守る知恵——寄進と荘園
その流れのなかで、もう一つ興味深いことが起こります。 地方の豪族たちは中央に対抗したのではなく、 むしろ積極的に中央と結びつこうとしたのです。 その方法が、朝廷に近い貴族や有力な寺社への土地の「寄進」でした。
寄進といっても、土地を明け渡して立ち去るわけではありません。差し出すのは、いわば土地の「名義」です。 豪族は自分の土地を、形のうえでは都の貴族や大寺社の持ち物として、収穫の一部を毎年納めます。 そのかわり、名目上の持ち主となった有力者の権威に、土地を守ってもらうのです。 そして実際の土地経営はこれまでどおり在地の豪族が担い、 残りの収穫と現場の実権は、しっかりと自分の手元に残しました。 名目上の持ち主を立てて、実質を守る――現代にも通じる、したたかな知恵といえるでしょう。
荘園は「脱税地」だったのか
一見すると、荘園は律令制の抜け道のようにも見えます。 学校の日本史でも、荘園は「律令制度の税を逃れるための土地」と説明されることがあります。 確かに律令国家の立場から見れば、その見方は間違っているわけではありません。 現実に朝廷が直接管理できる土地は減り、税収も思うようには集まらなくなりました。
しかし、地方で暮らす人々の立場から見ると、もう少し違った姿が見えてきます。 国司は数年で交代し、任期が終われば都へ帰ります。 一方、地域の豪族は何世代にもわたって同じ土地に暮らします。 国東半島や宇佐のような地域で、水路を掘り、ため池を築き、新しい田畑を開き―― その開発を主導したのは、その土地に根を下ろした豪族や寺社でした。 十年後、二十年後、あるいは子や孫の代を見据えて治水や灌漑に投資し、 村を豊かにすることは、自分たち自身の利益でもありました。
その結果、生産力は高まり、人口も増え、地域は豊かになっていきます。 農民にとっても、地域の有力者や寺社の保護のもとで暮らせることは、 少なくとも不安定な律令支配より安心につながる面もありました。 もちろん荘園にも問題はありました。大きな荘園領主が力を持ちすぎれば、新たな支配や搾取も生まれます。 それでも荘園とは、地方の人々が中央の権威を利用しながら、 自分たちの土地を守り育てるために生み出した仕組みでもあったのです。
全国に広がる寄進の仕組み
こうした有力者への寄進は、荘園を「合法化」する手段として全国に広がっていきました。 朝廷に近い高位の貴族や大寺社を名目上の領主にいただけば、その権威が土地の権利を保証してくれます。 やがて有力な荘園には、税を免除される権利や、国司の役人の立ち入りを拒む権利まで認められるようになりました。 寄進を受けた都の貴族は労せずして富を集め、各地の有力寺社もまた、 多くの寄進を受けて大きな経済力を持つようになります。 中央の権威と地方の実力が支え合うこの構図は、のちに貴族から武士へと 力が移っていく時代への伏線にもなっていきます。
宇佐神宮と荘園経済
こうした仕組みは、豊前・豊後一帯でも広がっていきました。 豊前・豊後の境に位置する宇佐神宮も、その恩恵を受けた存在の一つでした。
豊国には、宇佐平野や中津平野をはじめとする広い農地が広がっています。 しかし、その東には谷ごとに暮らしが営まれる山深い国東半島が横たわっています。 宇佐神宮は、豊国の平野部と国東半島の山々の両方と結び付きながら、多くの荘園や人々を支える存在へと成長していきました。
宇佐神宮は、単に朝廷に保護されたから栄えたのではありません。 豊かな荘園経営によって安定した経済基盤を持ち、それを背景に祭祀や寺院、 文化事業を継続できたからこそ発展したのです。 やがてこの半島に育つ六郷満山も同じです。山で修行する僧たちだけでは信仰共同体は維持できません。 麓で農業を営み、年貢や寄進によって支えた人々がいたからこそ、壮大な宗教文化が成立しました。 神社や寺院が広大な荘園を持ったことは、単に権力を拡大したというだけではありません。 その収穫が僧侶の修行を支え、寺院を維持し、石造文化や磨崖仏を生み出す資金となり、 地域全体の文化を育てていったのです。
荘園は、中央政府から見れば「律令制度のゆらぎ」でした。 しかし地方から見れば、それは国東のような地域文化が花開くための基盤でもありました。
律令国家が全国を一つにまとめようとした結果、宇佐神宮は中央と地方を結ぶ結節点となり、 その影響力を豊前・豊後から国東半島へと広げていったのです。 そして後の時代、この宇佐神宮を中心として、国東半島には日本でも独特な宗教文化が育まれていくことになります。
次回は、その宇佐神宮と並び、この半島で着々と力をつけはじめていたもう一つの人々――仏教寺院に関わる人々について見ていきましょう。
行ってみよう: 今も歩ける荘園 ― 田染荘
鎌倉時代、宇佐神宮領として発展した田染荘(豊後高田市)は、日本でも数少ない中世荘園の景観を今に伝える場所です。
現在目にする棚田や集落は中世そのままではありません。 しかし、この谷あいで千年近く農業が続けられてきたことは変わりません。 この地域とその周辺には、六郷満山を束ねた高山寺跡、富貴寺、熊野磨崖仏など数々の文化資産が残されています。
豊かな荘園が人々の暮らしを支え、その経済力が寺院や石造文化を育てたことを、 この土地では今も肌で感じることができます。
Koji Note(三和酒造)の「田染地区の荘園遺産と岩峰を巡る道」では、単にこの地域の ウォーキングモデルコースを紹介するだけでなく、それぞれの見どころスポットの 文化的背景までも丁寧に紹介されています。コース地図もリンク先でご覧いただけます。
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