国東界隈、ねほりはほり編

4. あえて言うの?神仏習合

国東物語の第6章で、こう書きました。 「神と仏は別の教えだから、どちらかを選ばなければ――そんな発想は、そもそも誰も持っていませんでした」と。

だとすると、素朴な疑問が湧いてきます。 誰もそんな発想を持っていなかったのなら、なぜ私たちは「神仏習合」なんて、あえて言うのでしょうか? 今回はこの四文字の正体を根掘り葉掘りします。

この言葉、当時は存在しませんでした

まず種明かしから。「神仏習合」ということば、奈良時代にも、鎌倉時代にも、江戸時代にもありません。近代になってから、学者たちが昔を振り返って名づけた用語です。

考えてみれば当然で、「混ざっている」と言えるのは「分かれている」を知っている人だけです。田の神に豊作を祈り、仏に病気平癒を願った当時の人々にとって、それは「習合」ではなく、ただの暮らしでした。魚と米を一緒に食べることに名前がいらないのと同じです。

では、いつから名前が必要になったのか――この答えは記事の最後にとっておいて、先に「混ざる」の中身を見てみます。

混ざり方には、順序がありました

ひとくちに「神と仏が混ざった」といっても、一気に混ざったわけではありません。あらためて整理すると、関係が段階を追って深まっていったことが見えてきます。

第一段階: 神のために、寺を建てる。 はじまりは「神もまた迷い苦しむ存在で、仏の救いを求めている」という考え方でした(第6章)。苦しむ神を仏の力で救ってさしあげよう――そうして神社のかたわらに建てられたのが神宮寺です。宇佐では弥勒寺がこれにあたります。このときの構図は、いわば仏が神を救う

第二段階: 神が、仏法を守る。 次に広まったのが「神もまた仏法を守る存在」という考え方。ここで神と仏は同じ目的を持つ仲間になります。その旗印が、大仏造立に力を貸すと宣言し、都まで上って仏を拝んだ八幡神でした(749年)。

第三段階: 神が、仏道を歩む。 天応元年(781)、八幡神は「八幡大菩薩」の号を受けます。神でありながら、悟りへの道を歩む修行者でもある。剃髪して袈裟をまとった僧形八幡神像も生まれました。神様が、仏の弟子の側に回ったわけです。

第四段階: 神は、仏の姿を変えたもの。 そして平安時代の後期になると、「神とは、仏が人々を救うためにこの世に現れた仮の姿」という考え方(本地垂迹)が体系化されます。宇佐では八幡神の本体は阿弥陀如来とされました。もはや仲間でも師弟でもなく、同一人物の二つの顔です。第8章で「本当の意味で神仏習合が花開いた」と書いたのは、この段階のことでした。

並べてみると面白いことに気づきます。仏が神を救い(第一)、神が仏を守り(第二)、神が仏に学び(第三)、ついに神と仏が一体になる(第四)。四百年かけて、両者の関係が一歩ずつ縮まっていく――神仏習合とは一つの出来事ではなく、この長い接近のプロセス全体の名前なんですね。

で、そのほとんどが宇佐発です

この四段階、じつは節目のかなりの部分に宇佐が絡んでいます。

  • 神宮寺の早い例――宇佐の弥勒寺
  • 神が上京して仏を拝んだ最初の大事件――八幡神の大仏参拝(749)
  • 神への菩薩号の最初の例――八幡大菩薩(781)
  • 神社の祭に仏教の儀礼を組み込んだ早い例――隼人の犠牲を悼む放生会第3章コラム

地方の一神社が、国家レベルの宗教史の「初」をこれだけ持っている。神仏習合の実験場は、都ではなく宇佐だったと言いたくなるほどです。

なぜ宇佐だったんですか?

前回の答えがそのまま効いてきます。

第一に、八幡神が混ざって生まれた神だったこと。在地の山の信仰、渡来の神、大和の祭祀――生まれつき複数の文化を抱えた神様にとって、仏教は「異物」ではなく「次に混ざる相手」でした。渡来の人々とともに早くから仏教が根づいていた土地柄(第5章)も、これを後押しします。

第二に、これが案外大事なのですが、八幡神は託宣でしゃべる神だったことです。姿のない神々の中で、宇佐の神は巫女の口を通じて意思を表明できました。「仏の救いを求める」と自分から言える。「大仏造立に力を貸そう」と宣言できる。前回の宝珠持ち逃げ事件では、法蓮と示談交渉までしてみせました。神と仏の関係の一歩一歩が、託宣という対話チャネルがあったからこそ、言葉として形にできた――神仏習合が宇佐で進んだのは、交渉できる神がいたから、という見方もできそうです。

「あえて言う」ようになった日

さて、冒頭の問いに戻ります。名前が必要になったのはいつか。

答えは明治のはじめです。新政府は神仏判然令(1868)を出し、千年以上同居してきた神と仏を制度として切り分けました。宇佐では、あの弥勒寺が廃されて姿を消します(第5章のコラムで訪ねた、あの草地です)。

「寺と神社は別のもの」という、私たちの当たり前は、このとき作られました。そして分かれた世界に生まれた私たちが千年の同居を振り返るとき、そこに名前が要るようになった――それが「神仏習合」です。あえて言うの?の答えは、分けてしまった私たちだからこそ、あえて言葉にしないと見えないから、でした。

幸い国東には、その「見えにくくなったもの」がまだ濃く残っています。寺の境内の鎮守の社、神社の宝物の懸仏、僧形の八幡神、そして寺の法会なのに村中が参加する修正鬼会。半島を歩くことは、名前が要らなかった時代の風景を歩くことでもあります。

今日のねほりはほり

  • 「神仏習合」は当時の人の言葉ではなく、近代の命名。混ざっていた人々には名前が要らなかった
  • 混ざり方には順序があった。仏が神を救う→神が仏を守る→神が仏道を歩む→神仏一体、四百年の接近プロセス
  • その節目の多くが宇佐発。混ざって生まれた神と、託宣という対話チャネルがあったから
  • 名前が必要になったのは明治の神仏分離の後。分けたからこそ、あえて言う

神と仏がともに歩んだこの世界を、体で確かめる方法が一つだけ残っています。 仁聞の開いた峰々を、実際に歩くこと――峯入りです。 次回、ねほりはほりシリーズ最終回は「嶺入りの変遷」を掘ります。