国東界隈、ねほりはほり編

3. 八幡神の正体をさぐる ― 戦の神になる前は何者だったの?

国東物語の八幡神は、託宣で朝廷を動かし(第3章)、やがて武士の守り神として全国区になりました(第9章)。 華々しいデビュー後の経歴は、本編でたっぷり書いたとおりです。

今回はそのを掘ります。 戦の神としてスカウトされる前の八幡神は、いったい何者だったのか。 じつはこれ、専門家のあいだでも決着のついていない、八幡研究いちばんの謎のようです。

まず不思議その1: 正史に(ほぼ)出てこない

日本の神様の履歴書といえば、古事記と日本書紀です。 ところが八幡神、この二冊にほとんど登場しません

天照大神や出雲の神々が神話の主役として活躍するのに対して、のちに「国家の守護神」とまで呼ばれる八幡神は、正史の神話パートに席がない。地方の神だったのだから当然といえば当然ですが、逆にいえば、正史に載っていない神が、正史を編んだ朝廷に頼りにされる存在にまでのし上がったことになります。この逆転劇こそが、八幡神の面白さの出発点です。

まず不思議その2: 名前からして謎

「八幡」と書いて、いまは「はちまん」。でも古くは「やはた」と読んだと考えられています。 御託宣集には、八幡神みずからの名乗りとしてこんな託宣が載っています。

辛国(からくに)の城(き)に、始めて八流(やながれ)の幡(はた)と天降って、吾は日本の神と成れり [1]

八本の幡(旗)として天から降った、だから八幡。しかも降り立った場所は「辛国の城」――辛国とは朝鮮半島方面を指すことば。名乗りの一行目から、海の向こうの気配が濃厚です。「やはた」が仏教とともに音読みされて「はちまん」になっていく経緯も含めて、名前そのものが出自の謎を背負っています。

不思議その3: 姿はないのに、キャラが濃すぎる

八幡神は本来、第2章で見たように巫女の託宣を通して語る、姿なき神です。 ところが御託宣集に残る逸話を拾っていくと、この神様、やることが妙に人間くさい。

変身がすごい。 6世紀、大神比義(おおがのひぎ)が3年の断食祈願の末に出会った八幡神は、竹の葉の上に立つ3歳の童子でした。「われは誉田(ほんだ)天皇広幡八幡麿なり」と名乗ったと伝わります。その前後には金色の鷹金色の鳩、さらには七つの顔を持つ鍛冶の翁の姿でも現れたといいます。鷹、鳩、童子、翁――自在に姿を変える神出鬼没ぶりです。[2]

放浪の旅もする。 御託宣集には、八幡神が宇佐に落ち着く前の遍歴の道のりまで記されています。辛国の城から、大和、紀伊、吉備、周防……と各地をめぐり、伊予国宇和郡(いまの愛媛県)を経て、たどり着いた先が国東半島・安岐郷の奈多(なだ)の浜、その海中の大石だったと伝えます。四国まで足を延ばした放浪の果てに、国東の浜に上陸する神様。神託にも「吾、昔、伊予国宇和郡より往来の時」と、旅の思い出をみずから語るくだりがあります。[3]

宝物を持ち逃げする。 御託宣集で一番人間くさいのがこの話です。名僧・法蓮(ほうれん)が彦山(英彦山)の修行で授かった如意宝珠。長年法蓮に仕えていた老人がこれを欲しがり、断られると――持ち逃げしました。怒った法蓮が八面山まで追いつめると、老人は金色の鷹に変身して正体を明かします。「我は八幡なり」。そして和解の証にこう約束しました。宇佐に鎮まるときには弥勒寺を建てて、あなたをその別当にする、と。神様が宝物を持ち逃げして、追いつめられて、示談する。しかもその示談の中身が、のちの神仏習合の制度そのものになっている――御託宣集、恐るべき物語です。[4]

祀れと催促する。 「吾は菱形宮の垣の外に隠居したる神ぞ。祀らなければ汝の家に神気を入れるぞ」と陰陽師を脅した神様の話も載っています(うっかり忘れた陰陽師は頓死したことになっています)。祀られたい神様、ここまで率直だと清々しいくらいです。[5]

自ら出征する。 隼人の乱では「われ征きて」と自分から戦場へ(第3章)。このとき神様を乗せて進軍した輿は、日本のお神輿(みこし)の起源とも言われます。[6]

都まで会いに行く。 749年、大仏建立に協力した八幡神は「毘盧遮那仏に会いたい」と、輿に乗って奈良まで上京しました。会いに行ける神様です。[7]

聞かれたら、はっきり答える。 769年、日本史に名高い道鏡事件。「道鏡を皇位に就ければ天下は太平」という託宣の真偽を確かめに来た和気清麻呂に、八幡神は「皇位は必ず皇統の者に」と答えました。歴史の側では「神託が帝位継承を左右した大事件」と語られますが、神様の側から言わせてもらえば、聞かれたから正直に答えたまで、だったのかもしれません。忖度なしのこの率直さ、先ほどの「祀れ」の催促と同じ、この神様の持ち味です。[8]

そして、悩んで出家する。 「神の身であることが苦しい」と仏道を願った話は、第6章で見たとおりです。[9]

姿はないのに、これだけキャラクターが濃い。前回の言い方を借りれば、これらの逸話が教えてくれるのは「八幡神が何をしたか」より「人々が八幡神をどう語りたかったか」です。濃いキャラの向こうに、語り手たちの顔が透けて見えます。

で、結局ルーツは何なんですか?

学説の森をのぞいてみると、だいたい次のような説が並んでいるようです。

  • 応神天皇説 ― 公式の祭神。ただし「誉田天皇=応神」との結びつきは後から整えられたとみる見方が有力のようです
  • 渡来系の神説 ― 「辛国の城に天降った」の名乗りどおり、朝鮮半島とゆかりの深い人々(宇佐の祭祀氏族・辛嶋氏など)が奉じた神に始まるとする説
  • 海の神説 ― 瀬戸内海の海人たちの信仰に根を持つとする説。第2章で見た「海の交流の中で育った神」の姿と重なります
  • 鍛冶の神説 ― 変身譚に「七面の鍛冶翁」が出てくること、近くの香春岳(かわらだけ)が古代の銅の産地であること、そして大仏建立への協力(銅!)から、金属の神の面影を見る説

どれか一つが正解、というより、どの説もそれぞれ八幡神の一面を言い当てている――そんな並び方に見えます。

混ざって生まれた神

その見え方を裏づけるのが、宇佐の祭祀を担った氏族の顔ぶれです。

  • 宇佐氏 ― 御許山を仰いできた在地の一族
  • 辛嶋氏 ― 名前からして海の向こうとつながる渡来系の一族
  • 大神(おおが)氏 ― 大和からやってきたと伝わる一族(あの比義の一族です)

在地の山の信仰、渡来の神、大和の祭祀。三つの流れが宇佐で合流し、長い時間をかけて一つの神格に練り上げられていった――八幡神は一つの起源から生まれたのではなく、混ざって生まれた神、という見方です。

そう考えると、いろいろ腑に落ちます。正史に載っていないのは、どの一族の神話にも収まらない合作だったから。キャラが濃いのは、それだけ多くの語り手がいたから。そして――生まれつき「混ざりもの」だった神様だからこそ、仏教という新参者とも、ためらいなく混ざれたのかもしれません。

今日のねほりはほり

  • 八幡神は記紀に(ほぼ)登場しない。正史の外から国家の神へという逆転の経歴
  • 名乗りは「辛国の城に八流の幡と天降った」。名前からして海の向こうの気配
  • 変身、持ち逃げ、催促、出征、上京、拒否、出家――姿なき神なのにキャラは日本屈指
  • ルーツは応神説・渡来神説・海人説・鍛冶神説いずれも一理あり。宇佐三氏族の信仰が合流した「混ざって生まれた神」とみると、全部つながる

混ざりものの神と、海を渡ってきた仏教。 この二つが宇佐で出会ったとき、何が起きたのか。 次回はいよいよ「神仏習合」を根掘り葉掘りします。


行ってみよう: 神が上陸した浜 ― 八幡奈多宮

本文で見た放浪の終着点、国東半島・安岐郷の奈多の浜。 ここは今も訪ねられます。大分空港から南へ、遠浅の砂浜が続く奈多海岸の中ほどに、 八幡奈多宮(はちまんなだぐう)が鎮座しています(杵築市奈多)。

境内から海を見ると、沖合300mほどの岩礁に鳥居が立っています。 この岩礁が市杵島(いちきしま)。奈多宮の元宮、つまり神が最初に降り立った場所と伝えられる岩です。 御託宣集が「奈多浜の海中の大石」と記した、あの大石にあたります。 社殿は、その岩に向かって建っている――海の彼方から来た神という伝えが、 そのまま境内の向きとして残っているわけです。

奈多宮は宇佐神宮の別宮で、伝承では729年、宇佐宮の大宮司・宇佐公基が創建したと伝わります。 そして宇佐との結びつきを何より物語るのが、かつての大神事**行幸会(ぎょうこうえ)**です。

八幡神の御神体は、薦枕(こもまくら)――真菰(まこも)で編んだ枕でした。 姿なき神の御験(みしるし)が、水辺の草で編んだ枕だというのが、まず驚きです。 行幸会では6年に一度、薦神社(中津市)の三角池に生える真菰でこの枕を新しく作り、 神輿に乗せて縁の社々をめぐって宇佐宮上宮へ納めます。 すると上宮の古い枕は下宮へ。そして下宮の古い枕は、半島を越えて奈多宮へ運ばれたのです。 奈多に着いた枕は、そこで終わりではありません。 浜の沖の厳島の大石から、海へ流されたと伝わります (伊予・宇和の八幡浜の八幡宮に納めて海に流した、という伝えもあります)。

気づかれたでしょうか。本文で読んだ遍歴の道――伊予国宇和郡を経て、奈多の浜の大石へ。 御験がたどるのは、その道のです。 神は海を渡ってこの浜に上がり、古い御験は同じ浜から海へ還っていく。 神の来た道が、そのまま神を送り返す道になっている―― ここまで筋の通った神事を、いったい誰が設計したのだろうと思わされます。

この行幸会、莫大な費用がかかることから鎌倉時代以降は長く中絶し、 元和元年(1615年)に細川忠興が150年ぶりに再興したものの、その後また廃れました。 いまは行われていません(復活を願う動きはあります)。

もうひとつ、奈多宮には見逃せないものがあります。 木造僧形八幡神坐像女神坐像2躯、国の重要文化財の三神像です。 しかもこれ、宇佐宮の旧御神体が奈多宮に移されたものと伝えられています。 注目してほしいのは「僧形」。姿を持たないはずの八幡神の、いちばん古い「姿」が、 剃髪した僧のかたちなのです。 本文の最後に出てきた「神の身であることが苦しい」と仏道を願った神 (第6章)――その願いが木彫りになったような像が、この浜に伝わっています。

例祭は4月5日。県指定無形民俗文化財の御田植祭が伝えられています。 杵築ICから車で約15分、大分空港からは車で約10分。三神像の拝観については、 事前に社務所か杵築市観光協会(0978-63-0100)に確認するのが確実です。

朝日の名所でもある浜です。海から昇る光を眺めながら、 ここに八本の幡が流れ着いたと語った人たちのことを思ってみてください。


出典メモ

逸話はいずれも『八幡宇佐宮御託宣集』(正和2年/1313、神吽編)によります。巻の同定は、山口大学で作成された「『八幡宇佐宮御託宣集』託宣・示現 年表」(2014)を参照しました。

  • [1] 八幡神の名乗り(八流の幡・辛国の城)。神の遍歴は巻三「日本国御遊化の部」
  • [2] 巻五「菱形池の辺の部」――金色の鷹・鳩・七面の鍛冶翁・竹の葉の上の三歳の童子(大神比義への示現)
  • [3] 巻三「日本国御遊化の部」――辛国城から大和・紀伊・吉備・周防・伊予を経て国崎郡安岐郷奈多浜へ至る遍歴
  • [4] 巻五――如意宝珠の由来。法蓮聖人と八面山の翁(八幡)の物語
  • [5] 巻十三「若宮の部」――菱形宮西方に隠居した神の託宣
  • [6] 巻五――隼人征伐。神輿を造り進軍した記事
  • [7] 巻六「小倉山社の部」――大仏造立への協力と上京
  • [8] 巻八「大尾社の部」――道鏡事件、和気清麻呂の上奏
  • [9] 神身離脱の託宣は『宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起』(承和11年/844)に見えます。御託宣集にも御許山(馬城峰)での出家の伝えがあります(巻十四ほか)

「行ってみよう」の行幸会・薦枕・三神像については、奈多宮および宇佐神宮の由緒(宇佐市の解説、行幸会八摂社の案内板ほか)と、国指定重要文化財の解説によります。