国東物語 ― 史料でたどる国東1300年

8. 荘園経済の成熟 ― 六郷満山、半島を包む

宇佐神宮の荘園と六郷満山の寺々は、平安時代の終わりから鎌倉時代にかけて、しだいに深く結びついていきました。 山には寺や修行の場が点在し、谷あいには田畑と集落が広がる。 里から納められる米や布、さまざまな労役が寺々の営みを支え、寺では人びとの安穏や豊作を願う祈りが捧げられました。 信仰と経済は別々に存在していたのではなく、人びとの暮らしのなかで重なり合っていたのです。

荘園が支えた寺々

第4編で見たように、国東半島では、平安時代の初めから宇佐神宮や弥勒寺に関わる荘園が広がっていきました。 田染荘(たしぶのしょう)も、11世紀の初めまでには成立していたと考えられています。

荘園から納められる年貢や労役は、祭礼や法会を営み、堂や仏像を守り、僧たちの活動を支える基盤になりました。 六郷満山が多くの寺院を擁する大きな宗教圏へ成長した背景にも、こうした荘園の存在がありました。

ただし、それは人びとの負担がなくなったということではありません。 田畑を耕す人びとは、米や布などを納め、ときには寺社や荘園に関わる仕事も担いました。 寺々の祈りと文化は、山や谷で暮らす人びとの働きに支えられていたのです。

山と里を結ぶもの

山中の寺と里の集落は、年貢や労役だけで結ばれていたわけではありません。 寺では、豊作や雨、病気平癒などを願う祈祷や法会が行われ、人びとは折々にそこへ参りました。 僧や修験者が峰々を巡る「峯入り」も、離れた寺々や集落をつなぐ営みでした。

人が移動すれば、物や知らせも動きます。 祈りの道は、山と里、谷と谷を結ぶ道でもありました。 六郷満山は、一つの大きな寺院が半島を支配したのではなく、それぞれの寺とその周囲の村々がゆるやかにつながることで形づくられていったのです。

里の神様も、生きている

この物語はここまで、寺と僧たちを主役に進んできました。 けれど村人たちの足元に目を落とせば、もう一つの信仰が変わらず息づいています。 用水の取り入れ口には水の神の小さな祠。田には田の神、山には山の神。 暮らしと収穫を左右する要所要所で、人びとは昔ながらの神々に手を合わせ続けていました。

そしてこの時代、神と仏の関係は、いっそう深いところで結ばれていきます。 神は、仏が人びとを救うためにこの世に現れた仮の姿——そんな考え方が広まり、宇佐では八幡神の本地(ほんじ)、つまり本来の姿は阿弥陀如来であるとされました。 満山の寺々では鎮守の神々が祀られ、神社には鏡に仏の姿を表した懸仏(かけぼとけ)が奉納されました。

神に祈ることと、仏に祈ることは、必ずしも矛盾するものではありませんでした。 宇佐で早くから育まれた神仏習合は、教えのうえでも暮らしのなかでも、この時代にいっそう豊かな姿を見せるようになります。

半島をめぐる修験の道

六郷満山の僧や修験者は、峰から峰へ、寺から寺へと修行の道を歩きました。 険しい岩峰や岩屋を巡りながら祈りを重ねる峯入りは、満山の寺々を一つの信仰世界として結びつける営みでした。

その道筋には、天念寺をはじめとする寺々や、耶馬(やば)と呼ばれる岩峰、深い谷や峠が連なります。 修行者が歩くことで、寺と寺、山と里のあいだを人や物、知らせが行き交いました。 六郷満山は、祈りの場であると同時に、半島の各地を結ぶつながりでもあったのです。

形になった祈り

六郷満山の寺院組織は、平安時代の終わりから鎌倉時代の初めにかけて大きく整えられました。 そして鎌倉時代には、荘園を基盤とする社会のなかから、国東半島を代表する石造文化や仏教文化が花開いていきます。

第1編で眺めた、蓮華座を持つ独特の石塔・国東塔。 造立年が確認できる現存最古の国東塔は岩戸寺にあり、弘安6年(1283)の銘が刻まれています。 国東塔や石仏には、亡き人の供養や現世の安穏を願う人びとの祈りが託されました。 こうした石造物を生み出すことができた背景の一つには、荘園を通じて蓄えられた経済力があったと考えられます。

田染の谷に建つ富貴寺大堂も、この時代の文化を伝える建物です。 宇佐神宮の大宮司を務めた家の氏寺として開かれたとされ、現在の大堂は12世紀に建てられました。 九州に残る最古の木造建築として、堂内の壁画とともに当時の浄土信仰をいまに伝えています。

行事もまた、長い年月を越えて受け継がれてきました。 国東を代表する「修正鬼会(しゅじょうおにえ)」では、鬼は追い払われる悪者ではありません。 仏の化身とされる鬼が松明を掲げ、人びとの無病息災や五穀豊穣を願って福をもたらします。

修正鬼会が記録に現れるのは鎌倉時代の安貞2年(1228)で、その始まりははっきりしていません。 伝承では仁聞(にんもん)菩薩が始めたとも語られます。 現在は天念寺で毎年行われるほか、成仏寺と岩戸寺で交互に受け継がれています。

修正鬼会——松明の火をかざす鬼

修正鬼会——燃えさかる松明を、鬼が堂内にかざす
(クリックで拡大)

石塔、阿弥陀堂、火を掲げる鬼。 姿は違っても、そこに込められているのは、人の死を悼み、日々の安穏と実りを願う祈りです。 現代のわたしたちが国東半島で出会う「六郷満山らしさ」の多くは、平安時代の終わりから鎌倉時代にかけて形を整えていきました。

仁聞という共通の祖

こうして寺々の組織や文化が形づくられるなかで、その始まりを一人の開祖に結びつける物語も語られるようになりました。 前編で紹介した仁聞菩薩です。

仁聞が実在したかどうかは分かっていません。 しかし、谷ごとに分かれた寺々が「同じ祖から始まった」と語ることには、大きな意味がありました。 仁聞は、六郷満山に属する人びとが自分たちの共通の歴史を語るための、象徴的な存在になったのです。

平安時代の終わりには、国東半島に多数の寺院や修行場が営まれ、本山・中山・末山というまとまりも形づくられていました。 それぞれの寺は、宇佐神宮との結びつきや荘園からの支えを背景に、祈りと修行を続けました。

忍び寄る新しい時代

寺と荘園を結ぶ仕組みは、長く続くかに見えました。 しかし、時代は静かに変わり始めます。 荘園をめぐる権利が複雑になる一方で、土地を実際に管理し、武力で守る武士たちが力を伸ばしていったのです。

やがて、その波は豊後にも及びます。 六郷満山と宇佐の荘園は、新たにこの地へ入ってきた大友氏と向き合うことになります。


行ってみよう その1:岩壁に立つ巨人 ― 熊野磨崖仏

本編で紹介した磨崖仏。そのなかでも破格の大きさを誇るのが、田染の熊野磨崖仏(くまのまがいぶつ)です。 向かって右に高さ約6.8メートルの大日如来、左に8メートルを超える不動明王が刻まれています。 大日如来は平安時代の終わりごろ、不動明王はそれよりやや後に造られたと考えられています。

熊野磨崖仏——左が不動明王、右が大日如来

熊野磨崖仏——左が不動明王(8m超)、右が大日如来(約6.8m)
(左下の人影との対比で大きさが実感できる/クリックで拡大)

重機も切削機械もない時代に、山中の岩壁へこれほど大きな仏を刻む。 だれが、どのような組織で造ったのかは分かっていません。 ただ、長い時間と多くの労力を要する造像だったことは確かです。 その実現には、信仰を寄せる人びとの支えも必要だったことでしょう。

磨崖仏の先には熊野神社が鎮座し、麓には胎蔵寺(たいぞうじ)があります。 熊野信仰は紀伊の熊野三山から各地へ広がり、国東半島にも伝わりました。 天台寺院と熊野神社、そして巨大な仏像が同じ参道で結ばれている風景には、神と仏を分け隔てなかった時代の信仰がよく表れています。

参道の自然石の石段は、鬼が一夜にして99段を積み上げたと伝わります。 ここでもまた、鬼。国東の物語では、大切な場所にしばしば鬼が姿を現します。

現代の峯入りでは、この不動明王の前で護摩を焚き、半島を巡る行へ出発します。 かつて修験者が歩いた祈りの道は、いまもここから山々へ続いています。

行ってみよう その2:平安の色がよみがえる ― 富貴寺大堂と県立歴史博物館

本編で触れた富貴寺大堂。 田染の里山にたたずむこの阿弥陀堂は、平安時代の姿を伝える九州最古の木造建築です。 堂内の壁には阿弥陀の浄土を描いた壁画が残り、建物は国宝に指定されています。

もっとも、その価値がいつの時代にも十分に理解されていたわけではありません。 長い年月のなかで往時の記憶は薄れ、一時は近隣の子どもたちの遊び場になっていたという話も伝わります。

いま、堂そのものは大切に保存されていますが、壁画の色は千年近い時を経て、往時の面影をかすかに伝えるのみです。 その創建当時の姿を原寸大の復元で体感できる場所が、宇佐の大分県立歴史博物館です。 館内には富貴寺大堂が再現され、内部の壁画も、調査をもとに鮮やかな色彩で復元されています。 堂に足を踏み入れれば、創建当時の堂内を彩った色と浄土の空間を感じることができます。

同じ館内には、熊野磨崖仏の大日如来を原寸大で復元した展示もあります。 宇佐と国東の歴史をひとつづきにたどることのできる、この物語の「総合案内所」のような博物館です。