8. 荘園経済の成熟 ― 六郷満山、半島を包む

宇佐神宮と六郷満山が築いた「神仏習合×荘園経済」の仕組みは、やがて半島の隅々にまで息づくようになります。 山々には寺が立ち並び、海辺の村にも荘園の田畑が拓かれ、里では僧や神官、農民、職人が共に暮らす。 信仰と経済が人々の暮らしの中で結びつき、半島全体を包み込むような仕組みが形づくられていきました。 かつて山に籠もっていた修験僧たちは、いまや荘園を支える祈祷師であり、開発者であり、あるいは地域の精神的リーダーでもありました。

荘園を軸にした経済基盤

平安後期から鎌倉時代にかけて、六郷満山の寺社は荘園を軸にした経済基盤を確立していきます。 この時期、寄進地系荘園は次々と拡大し、田染(たしぶ)・安岐・武蔵などの各郷では田畑の整備や新田開発が進みました。 「寄進地系荘園」というのはもともとの土地の持ち主がその領地を中央の貴族や大寺社に「寄進」することで、 国司の課税や干渉を免れた荘園のことです。こうして地方の土地が貴族や寺社の名義で守られるようになり、 実質的には独立した経済圏となっていきました。

そして荘園から得られる年貢は寺院の維持や修行者の生活を支える安定した財源となりました。 六郷満山が単なる修行の場ではなく多くの寺院や僧侶を抱える大規模な共同体へと発展できた背景には この荘園経済の存在があったのです。

山と里をつなぐ循環

山中の伽藍だけでなく里に近い寺社にも勧進所や別院が建ち、信仰の中心は山と里を行き来する形へと変わっていきます。 そこでは僧侶と農民が協働して土地を開き、年貢の一部を寺社に納める。寺社はその収益を伽藍の維持や法会の運営、 修験者の活動などに充て、その過程で道路や橋の整備にも関わったと考えられています。 現代風に言えば、地域の開発と維持を担う存在に近かったのかもしれません。

里の神様も、生きている

ところで、この物語はここまで、寺と僧たちを主役に進んできました。 けれど村人たちの足元に目を落とせば、もう一つの信仰が変わらず息づいています。 用水の取り入れ口には、水の神様の小さな祠。田には田の神、山には山の神。 暮らしと収穫を左右する要所要所で、人々は昔ながらの神々に手を合わせ続けていました。

そしてこの時代、神と仏の関係は、いっそう深いところで結ばれていきます。 神は、仏が人々を救うためにこの世に現れた仮の姿——そんな考え方が広まり、 宇佐では八幡神は阿弥陀如来の現れとされました。 満山の寺々は境内に鎮守の神々(六所権現)を祀り、 神社には御神体の鏡に仏の顔を打ち出した懸仏(かけぼとけ)が掲げられ、 八幡神は僧侶の姿の像に刻まれる。

仏様なのか、神様なのか、もう判然としない。けれど、誰も困らない。 宇佐で生まれた神仏習合が、教えのうえでも暮らしのなかでも本当の意味で花開いたのは、 じつはこの時代だったと言えるのかもしれません。

半島をめぐる修験のネットワーク

荘園経済の拡大とともに、修験のネットワークも広がります。僧たちは年に数度山から山へと修行の道を歩き各地で祈祷や勧進を行いました。 その行列が通るたびに村人は米や布を供え僧たちは祈りを返す。天念寺やその近くの耶馬(やば)とよばれるそびえる岩の峰々、 中山仙境はそうした修験者たちの修験場として中心的な役割を果たしました。こうして六郷満山は祈りの場であると同時に、 人と物資と情報が巡る回路として機能するようになりました。

また、宇佐神宮を頂点とする信仰のつながりのもとで半島の寺社は「神の領地」「仏の荘園」として互いに連携し、 地域間の対立を調整する緩衝機能も果たしていました。この柔らかなつながりが豊後の比較的安定した状況を支えていたとも考えられます。

最盛期——すべてが循環する時代

鎌倉から南北朝期にかけて国東半島の荘園群は最盛期を迎えます。田染荘 (たしぶのしょう)をはじめとする 荘園の多くは「年貢米の輸送地」として海上交通にも結びつき、港には米俵や木材塩などの集積が進みました。 宇佐や別府湾沿岸の港からは、人や物資だけでなく情報や信仰も行き交いました。山では修験と伽藍修復、里では稲作と祭礼、 海では年貢米を積んだ船が行き交う。すべてが見事に循環していた時代です。

いま目にする満山は、このころ生まれた

現代のわたしたちが国東半島で出会う「六郷満山らしさ」——その多くは、じつはこの最盛期に形づくられたものです。

第1章で眺めた、蓮華座を持つ独特の石塔・国東塔。 現存最古のもの(岩戸寺)には弘安6年(1283)の銘があり、まさにこの時代の作です。 荘園の実りは、亡き人の供養や現世の安穏への祈りを込めた石の塔に姿を変えました。 岩壁に刻まれた磨崖仏の多くもこの前後の造像と考えられており、 第4章で触れた「荘園の収穫が石の文化を生み出す」という流れが、目に見える形で残っています。 田染の谷の富貴寺大堂——九州最古の木造建築——も、宇佐の荘園の富が生んだ阿弥陀堂でした。

行事も同じです。天台の寺々で正月に五穀豊穣を祈る法会に、鬼払いと火祭りが結びついて生まれたのが、 国東独特の「修正鬼会(しゅじょうおにえ)」。ここでは、鬼は払われる悪者ではありません。 仏の使いとして松明を掲げ、家々を回って火で清め、福を配って歩くのです。 寺の法会でありながら、村人が松明を担いで参加する。 祈りと暮らしがひとつに溶け合ったこの行事は、いまも天念寺や成仏寺・岩戸寺に受け継がれています。

修正鬼会——松明の火をかざす鬼

修正鬼会——燃えさかる松明を、鬼が堂内にかざす
(クリックで拡大)

この頃には満山の一年の法会や講の営みが記録に整えられるようにもなり、 いま「六郷満山の文化」として目にするものの原型が、この時代に出揃っていきました。

そして伝承では、修正鬼会もまた、仁聞が28の寺の僧を集めて始めたものとされています。 ここでも、仁聞です。では、あらためて——仁聞とは、いったい何者なのでしょうか。

仁聞伝説と満山の実像

じつは、六郷満山が自らの起源をさかんに語り始めるのは、まさにこの頃です。 その中心にいたのが仁聞菩薩でした。

伝承によれば、仁聞は宇佐神宮の神々の導きを受けながら国東半島の峰々を巡り寺院や修行場を開いた開祖とされています。 しかし現在の研究では実際にそのような人物が存在したかどうかは分かっていません。

むしろ、六郷満山が大きな共同体へと成長する中で、その歴史や精神が一人の理想的な修行者の物語として語られるようになった とも考えられています。史実か伝承かを超えて仁聞菩薩は六郷満山の人々にとって「自分たちはどこから来たのか」を示す 象徴的な存在となっていったのです。

当時、国東半島では多くの山々に寺院や修行場が営まれていました。記録によれば半島には数十の寺が存在し その中には本山・中山・末山といった役割分担も見られました。僧侶や修験者の数は千人を超え、山々を行き交いながら 祈祷と勧進を続けていたと伝えられます。両子寺・千燈寺・文殊仙寺・天念寺・岩戸寺などがその代表格で、宇佐神宮の加護のもと 荘園の米や木材を支えに伽藍を維持していたのです。

このようにして、六郷満山の寺社は地域の中心的な役割を担うようになっていました。祈りと経済が一体となったこの仕組みは、 長く続くかに見えました――少なくとも、そのときまでは。

忍び寄る新しい時代

しかし、時代は静かに変わりつつありました。荘園を守っていた中央貴族の力が弱まり地方の武士が頭をもたげはじめたのです。 その波がついに豊後にも及びます。そして、六郷満山にとって最大の試練となる存在――大友氏の勢力がこの地にも及び始めます。


行ってみよう その1: 岩壁に立つ巨人 ― 熊野磨崖仏

本編で紹介した磨崖仏。そのなかでも破格の大きさを誇るのが、田染の熊野磨崖仏(くまのまがいぶつ)です。 高さ約8メートルの不動明王と、約7メートルの大日如来。 現代の巨大建造物や、全国の富を集めて造られた都の大寺・大仏を見慣れた目には、 少し小ぶりに映るかもしれません。けれど、想像してみてください。 重機も切削機械もないこの時代に、国東の山中の岩壁へこれを刻み上げる工事を。

熊野磨崖仏——左が不動明王、右が大日如来

熊野磨崖仏——左が不動明王(約8m)、右が大日如来(約7m)
(左下の人影との対比で大きさが実感できる/クリックで拡大)

しかも、満山の仏たちは「見せるための仏」ではありません。 後世、各地で見られるような専門の石工の手になるものではなく、もっぱら修行の一環として僧侶みずからの手で彫られました。 麓の胎蔵寺(たいぞうじ)には、道具を打つための鍛冶坊まで備わっていたと伝わります。 それでも、これほどの歳月を要する大工事が寺だけで成し遂げられたはずはありません。 周辺の人々の有形無形の支えがあったことは明らかで、 本編で見てきたこの地域の経済的な豊かさと人々の暮らしの中の宗教の、なによりの証と言えるでしょう。

この磨崖仏を祀るのは、石段を登りきった先の熊野神社です。 熊野の信仰は紀伊(いまの和歌山)の熊野三山に発し、ちょうどこの時代に全国へ広がった、当時の「新しい信仰」でした。 この地域が7、8世紀の古い伝統やしきたりをただ守り継いでいただけでなく、 瀬戸内の海にひらかれた人々の活発な交流を通じて、 つねに新しい文化を取り入れながら進化し続けていたことがうかがえます。

天台の胎蔵寺と熊野神社——ここにも、寺と神社が一体となった神仏習合の形が息づいています。 胎蔵寺の建立は、伝承では養老年間。史実としての古さは定かでありませんが、 かなり早くからこの地に根を張っていた寺だったと推測されます。 その寺を土台に、あるときこの巨大な磨崖仏の造像が成し遂げられ、 やがて熊野の神がそれを祀るようになった——そんな展開だったのでしょう。

参道の自然石の石段は、鬼が一夜にして99段を積み上げたと伝わります。 ここでもまた、鬼。国東の物語には、大事な場面でかならず鬼が顔を出します。 なお、胎蔵寺は現代の峯入りの出発点でもあります。前章で紹介した峰の道は、いまもこの寺から始まります。

行ってみよう その2: 平安の色がよみがえる ― 富貴寺大堂と県立歴史博物館

本編で触れた富貴寺大堂。 田染の里山にたたずむこの阿弥陀堂は、火災や建て替えで失われがちな木造建築のなかで、 平安の姿のまま今日まで生き延びた九州最古の木造堂宇です(国宝)。 堂内の壁には阿弥陀の浄土を描いた壁画が残り、堂と壁画をあわせて、 この時代の仏教文化をいまに伝える一級の歴史資料となっています。

もっとも、その価値がずっと大切にされてきたわけではありません。 長い年月のなかで往時の記憶は薄れ、一時は近隣の子どもたちの遊び場になっていた、という話も伝わります。

いま、堂そのものは大切に保存されていますが、壁画の色は千年の時を経て、往時の面影をかすかに伝えるのみです。 けれど、創建当時の姿をまるごと「体感」できる場所があります。 宇佐の大分県立歴史博物館です。 館内には富貴寺大堂が原寸大で復元され、内部には阿弥陀浄土変相図をはじめとする壁画が、 創建当時の極彩色で精細に再現されています。 堂に足を踏み入れれば、平安の参詣者と同じ感覚で、金色と原色に包まれた浄土の空間を味わうことができます。

同じ館内には、その1で紹介した熊野磨崖仏・大日如来の実物大復元も展示されています。 プロジェクションマッピングの演出や充実した解説展示とあわせて、 宇佐と国東の歴史をひとつづきにたどることのできる、この物語の「総合案内所」のような博物館です。