国東物語 ― 史料でたどる国東1300年

10. 炎のあと ― 再興の六郷満山

戦国の争乱によって、六郷満山は多くの堂宇と、寺々を支えてきた荘園の基盤を失いました。 それでも、すべての寺と祈りが消えたわけではありません。

江戸時代に入ると、残された寺々は、新しい支配の仕組みのなかで再び結び直されていきます。 それは、かつての六郷満山をそのまま取り戻すことではありませんでした。 小さくなった寺々が、藩の保護や地域の人びとの支えを受けながら、新しい形で歩み始める再興でした。

戻らなかった寺領

戦乱が終わり、江戸の世を迎えても、六郷満山が以前の姿に戻ったわけではありません。 国東半島は、杵築藩のほか、島原藩や延岡藩などの領地や飛び地に細かく分けられました。 半島全体に広がっていた中世の寺院組織も、それぞれの領地の境を越えて同じ力を保つことは難しくなります。

かつて寺々が直接支配していた土地や坊は、寺から切り離され、村へと組み替えられていきました。 僧坊のなかには農家へ転じたものもあり、多くの寺は、わずかな寺領と少ない檀家によって存続する小規模な寺院になりました。

六郷満山は、戦国以前の大きな経済基盤を取り戻したのではありません。 失ったものを抱えたまま、別の仕組みのなかで生き残る道を探すことになったのです。

両子寺が新しい中心に

再編の中心となったのが、国東半島南部を領有した杵築藩と、その保護を受けた両子寺(ふたごじ)でした。

江戸時代中期、両子寺は杵築藩松平氏の祈願所として40石を与えられました。 そして六郷山の総持院として、各地に残った寺々をまとめる中心的な役割を担うようになります。

藩にとって両子寺は、領内の安泰を祈る寺であると同時に、分散した六郷山寺院を結ぶ存在でもありました。 信仰と領国支配は、ここでも切り離されたものではありませんでした。

ただし、両子寺を中心にしたからといって、半島の寺々が再び一つの大きな領地を持ったわけではありません。 中世の荘園に代わって、藩の保護、寺と村との関係、僧たちの共同の儀礼が、六郷山を支えるようになっていきます。

峯入りが寺々を結び直す

その新しいつながりをよく表しているのが、峯入りです。

峯入りは、仁聞(にんもん)菩薩ゆかりの岩屋や寺を巡る修行として、古くから行われてきました。 江戸時代中期以降になると、それまで個々の僧が行っていた修行は、複数の寺院の僧が同じ年に参加する集団の行へと整えられていきます。

江戸時代には、『豊前豊後六郷山百八十三所霊場記』や『豊後国六郷山巡礼手引』といった案内記も作られました。 そこには、山中に点在する183か所の霊場と、その位置関係が記されています。 なかには当時すでに衰退していた霊場も含まれ、案内なしには歩けない場所もあったといいます。

僧たちは宇佐から国東半島の峰々へ入り、寺や岩屋を巡って、最後に両子寺で行を終えました。 荘園という経済のつながりが失われたあと、峯入りという祈りの道が、離れた寺々をもう一度結び直したのです。

法会(ほうえ)もまた、寺を結ぶ

修正鬼会(しゅじょうおにえ)も、江戸時代に新しい形へ整えられていきました。

江戸時代中期には、六郷山の寺々が東の二組と中・西の計四組に分かれ、各寺の僧が集まって修正鬼会を営む仕組みができていました。 寺の数が多い地域では、正月に寺から寺へと連日のように法会が続いたとされます。

それは、参詣者に見せるための祭りというより、寺々が互いのつながりを確かめ、地域の無病息災や五穀豊穣を祈るための法会でした。 中世の組織が失われたあとも、僧たちが一つの場所に集まり、ともに祈ることで、六郷山というまとまりが保たれていったのです。

石に刻まれた江戸の祈り

寺々の規模は小さくなりましたが、地域の人びとの祈りがなくなったわけではありません。 江戸時代の国東半島では、在地の石工たちによって、石造仁王や庚申塔(こうしんとう)、地蔵などが数多く造られました。

中世の国東塔や五輪塔とは姿の異なる、新しい石の文化です。 寺の入口に立つ仁王像は、参詣する人びとを迎え、寺と村を守る存在になりました。

両子寺の山門前に立つ大きな石造仁王像も、寺に伝わるところでは文化11年(1814)の作とされています。 堂や仏像、石造物に残された銘からは、僧だけでなく、願いを寄せた人びとや、石を刻んだ職人の存在も見えてきます。

石の文化は、中世のまま止まったのではありません。 時代ごとの祈りと、それを形にする職人の技によって、江戸時代にも新しい姿を増やしていったのです。

よみがえる信仰共同体

こうして六郷山は、かつての荘園を基盤とする組織とは異なる姿で再編されていきました。 両子寺と杵築藩、各地に残った寺院、そして寺や法会を支える地域の人びと。 それぞれの力は大きなものではなくても、峯入りや修正鬼会を通して結び合うことで、六郷山の名と祈りは受け継がれました。

もっとも、すべての寺や霊場が再興したわけではありません。 退転したままの寺もあり、かつての大伽藍を取り戻せなかった場所もありました。 再興とは、失われたものをすべて元に戻すことではなかったのです。

それでも、古い岩屋で祈りが続けられ、残された仏像が守られ、新しい石仏や仁王が造られました。 六郷満山は、失ったものを抱えながら、その時代に続けられる姿へ変わることで生き延びていきました。

いま見る風景に重なる時代

私たちが今日「六郷満山」と呼んでいる風景は、一つの時代につくられたものではありません。

岩峰や岩屋には、古くからの山岳信仰の記憶があります。 平安時代や鎌倉時代の仏像、石塔、磨崖仏が残り、江戸時代には集団峯入りや修正鬼会の仕組みが整えられ、石造仁王や庚申塔が加わりました。 さらに近代になると、古い行場に新たな石橋が架けられ、六郷満山を象徴する景観になっていきます。

六郷満山は、単に昔の姿を取り戻したのではありません。 古くから受け継がれた信仰の上に、それぞれの時代の人びとが新しい形を重ね続けた結果として、いまの姿へ育ってきたのです。

しかし、その歩みには、もう一度大きな変化が待っていました。 江戸時代に結び直された神と仏、寺と地域の関係は、明治という新しい時代の始まりに、再び引き離されることになります。


行ってみよう:この章の舞台 ― 天念寺と長岩屋の谷

峯入りの道、修正鬼会、そして時代を重ねた石の景観を一度に感じられる場所が、豊後高田市の長岩屋(ながいわや)の谷です。

谷の中心にあるのが、天念寺(てんねんじ)です。 六郷山の中山本寺の一つで、山岳修行の重要な拠点でした。 現在残る講堂は江戸時代後期の建物で、修正鬼会の舞台となっています。

かつての天念寺には本堂や庫裏もありましたが、昭和16年(1941)の集中豪雨で流失しました。 現在の境内が小さく見えるのは、戦国時代の焼失だけによるものではありません。 長い歴史のなかで、災害によって失われた建物もあったのです。

修正鬼会は現在も旧正月の時期に行われます。 松明を手にした鬼が講堂に現れ、人びとの無病息災と五穀豊穣を祈ります。 開催日は年によって異なるため、訪れる際は豊後高田市などの案内で確認するとよいでしょう。

天念寺の修正鬼会——松明の火が境内を照らす(動画・音声あり)

隣接する「鬼会の里」歴史資料館では、六郷満山の仏像や修正鬼会に関する資料が展示されています。 夜の行事へ参加できないときにも、その歴史や作法に触れられる場所です。

寺の前を流れる長岩屋川に目をやると、川の中の巨岩に不動三尊が刻まれています。 「川中不動」——中世に、水害除けを願って彫られたと伝わります。 暮らしの安全を願う祈りが、そのまま岩に刻まれたような磨崖仏です。

そして寺の背後を見上げれば、天を突く岩峰の連なり、天念寺耶馬(やば)がそびえます。 その稜線に架かるのが無明橋です。

この橋は古代や中世から残るものではなく、大正時代に架けられたと考えられています。 古くからの修験の道に、近代の石工が新たな景観を加えたものです。 いまでは、断崖を巡る峯入りの厳しさをひと目で伝える、天念寺耶馬の象徴になっています。

天念寺耶馬の稜線に架かる無明橋

少し足を延ばせば、隣の夷谷(えびすだに)に中山仙境があります。 岩峰の尾根をたどる道には鎖場が続き、ここにも無明橋が架かっています。 六郷山の修験者たちが歩いた、岩峰と谷の世界を感じることができます。