6. 「神仏習合」の瞬間

こうして宇佐神宮の周辺には、多くの仏教寺院や修行の場が作られるようになりました。

それらは最初から一つの組織として存在していたわけではありません。 しかし寺院が増えるにつれ、それらをまとめ、人々を導く僧侶たちも現れるようになります。

そして彼らが出会ったのが、同じく力を増しつつあった宇佐神宮でした。

成長する宇佐神宮と国家仏教

宇佐神宮は、この頃には九州を代表する大きな神社へと成長し、単なる地方の神社ではなくなっていました。 隼人平定や国家事業への託宣などを通じて、宇佐の八幡神は朝廷から深い信頼を得るようになります。 やがて八幡神は国家を守る神として都にも迎えられ、その名は全国へ広がり始めました。 宇佐神宮は、地方の有力神社から国家を支える神社へと役割を広げつつありました。

しかし、その頃には国家を支えていたのは神道だけではありませんでした。 奈良の都では、仏教もまた国家を守る重要な役割を担うようになっていたのです。

村では、神も仏もとなりどうし

ところで、神と仏の出会いといっても、村々の暮らしの中では、 それはもともと「問題」ですらありませんでした。

田の実りは田の神に、航海の安全は海の神に祈る。 疫病がはやれば仏に経をあげてもらい、亡くなった人の行く末は仏に託す。 人々の暮らしの中で神と仏は、それぞれの場面で頼りになるありがたい存在として、 ごく自然に同居していました。 海を越えてやってきた人々も、もともとこの地に暮らしていた人々も、 それぞれの神々を敬いながら、仏にも手を合わせていたのです。 「神と仏は別の教えだから、どちらかを選ばなければ」―― そんな発想は、そもそも誰も持っていませんでした。

国家には理屈が必要だった

ところが、国家のレベルでは話が別です。 朝廷は神々の祭祀を国の制度として整え、その一方で仏教を国家を守る柱に据えました。 前の章で見たように、この時代には為政者自身が、神仏の力は現実そのものを動かすと本気で信じています。 祀り方を誤れば、祟りや災いは国家そのものに降りかかる。 現実を支配する二つの大きな力の関係を、あいまいなままにしておくわけにはいかないのです。 国家の祭祀を担う神社と、国家の安泰を祈る寺院。 そのどちらもが重みを増すなかで、両者の関係を公に説明する理屈が必要になったのです。 朝廷から頼りにされる宇佐神宮にとっては、なおさらのことでした。

「神もまた仏法を守る」

そこで次第に広まっていったのが、

「神もまた仏法を守る存在である」

という考え方でした。神もまた仏の教えを敬い、人々を救うために力を貸している。 そう考えれば、神と仏は同じ目的を持つ仲間となります。 後の世に「神仏習合」と呼ばれるこの考え方は、いわば、 民衆の暮らしの中にとっくにあった実態を、国家にも通じる言葉で説明し直したものだったのです。

この考え方のもと、宇佐神宮には弥勒寺が建立され、周辺の寺院や修行者たちとの 結びつきも強まっていきました。

神が仏を拝んだ日——東大寺の大仏

そして、この「神もまた仏法を守る」という新しい関係を天下に示す出来事が起こります。 奈良の都で進められていた、東大寺の大仏造立です。

聖武天皇が発願したこの大事業は、難航していました。 巨大な仏像を鋳るための大量の銅、その表面を飾る黄金、そして途方もない労力と費用。 国を挙げた事業は、幾度も行き詰まりかけていました。

そのとき朝廷に届いたのが、宇佐の八幡神の託宣でした。

「天の神、地の神を率いて、必ず大仏を成し遂げよう」

一地方の神が、国家の大事業に――それも仏教の象徴というべき大仏の造立に――力を貸すと 宣言したのです。おりしも陸奥の国から大仏に施す黄金が発見されると、 人々はこれを八幡神の霊験と受け止めました。

天平勝宝元年(749)、八幡神はついに宇佐から都へ上ります。 神職の尼、大神杜女(おおがのもりめ)が神霊とともに紫色の輿に乗り、 朝廷の丁重な出迎えを受けて奈良に入りました。 そして造立の進む大仏の前で、八幡神は仏を拝んだのです。

神が、仏を拝む――。 都の人々が目撃したこの光景こそ、神仏習合が国家の表舞台に登場した瞬間でした。 朝廷は八幡神に皇族に準じる高い位を贈り、東大寺のかたわらには 八幡神を祀る手向山八幡宮が置かれて、今も大仏を見守り続けています。

出家した神——八幡大菩薩

そして八幡神と仏との関係は、さらにもう一歩深いところへ進みます。

この頃、人々の間には「神もまた迷いや苦しみを抱えた存在であり、 仏の救いを求めている」という考え方が広がりはじめていました。 宇佐の八幡神もまた、託宣を通じて仏の道への帰依を望んだと伝えられています。

天応元年(781)、朝廷は八幡神に「八幡大菩薩」の号を贈りました。 神でありながら、菩薩――仏の悟りへの道を歩む存在――でもある。 神に菩薩の号が贈られたのは、これが初めてのことでした。

やがて八幡神は、頭を剃り、袈裟をまとった僧の姿でも表されるようになります。 「僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)」と呼ばれるこの姿は、 出家して仏に帰依した神という、他に類を見ない信仰のかたちを今に伝えています。 東大寺には、名仏師・快慶の手になる国宝の僧形八幡神坐像が、今も大切に祀られています。

仏法を守るだけでなく、神みずからが仏の道を歩む。 神と仏の結びつきは、ここに一つの頂点に達したのです。

全国へ広がる八幡信仰

神と仏が共に人々を導くという新しい仕組みは、宇佐神宮にとっても大きな意味を持ちました。宇佐神宮は朝廷との結びつきを深め、 やがて全国有数の神社へと成長していきます。現在、日本各地に数多く見られる八幡宮も、その流れの中から生まれたものです。

一方、八幡神と国家との結び付きは、このあと武士の時代を迎える中で、「軍神・八幡」としてさらに大きく発展していきます。

そして次回は、この神仏習合を土台として国東半島に生まれた もう一つの大きな共同体「六郷満山」の始まりを見ていくことにしましょう。 伝承は語ります――出家した八幡神が修行の舞台に選んだのは、 ほかならぬ国東の峰々だったのだと。


行ってみよう: 東大寺を守る八幡神 ― 手向山八幡宮

本編で語った八幡神と大仏の物語には、今も訪ねられる続きがあります。 奈良の東大寺、大仏殿の東の丘に鎮座する 手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)です。

大仏造立を助けるために都へ上った八幡神は、天平勝宝元年(749)、 東大寺の鎮守(守り神)として宇佐からこの地に迎えられました。 以来千二百年あまり、八幡神は大仏のかたわらに鎮座し続けています。

社殿は大仏殿から二月堂・三月堂へと続く静かな散策路の途中にあり、 古くから紅葉の名所として知られてきました。 「このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」―― 百人一首にある菅原道真のこの歌は、この手向山を詠んだものと伝えられています。

奈良を訪れる機会があれば、大仏様を拝んだあと、 その大仏を千年以上守り続けている宇佐生まれの神様にも、ぜひ手を合わせてみてください。 国東・宇佐の物語が、遠く奈良の都までつながっていることを実感できるはずです。