3. 大和と地方文化 ― 朝廷から頼りにされる宇佐の神

そういうわけで、日本列島ではそれぞれの地方文化に根ざした文化圏が横並びで形成されていましたが、 歴史の流れの中で、大和の地域が一歩先に次の段階へ進みはじめます。

白村江の敗戦と律令の導入

きっかけの一つは、海の向こうの百済の滅亡でした。もともと百済や新羅からは技術者や僧侶がたびたび 渡来していましたが、国が滅ぶと王族や知識人、工人たちがまとまって日本へ移り住むことになります。

大和は復興をめざす友好国・百済を支援するため、大軍を送りました。しかし当時東アジア最大の帝国だった 唐の軍勢の前に敗北します。日本史に残る白村江(はくすきのえ)の戦いです。

もちろん、以前から大和は周辺地域との交流を通じて少しずつ制度や技術を学んでいたのですが、 この敗北には大変なショックを受けた大和朝廷でしたが、すぐにこの人たちがもたらした新しい知識や制度を 積極的に取り入れる方向を目指しはじめました。大和は百済からの人々を迎え入れることで、 当時の先進文明の象徴でもあった仏教と、律令という国家運営システムを一気に取り込んだのです。

日本流の律令制——間接統治という知恵

これが日本史でよく知られる「律令制度」につながっていくのですが、徹底的な中央集権を目指す大陸の律令制度とは ちょっと違っていました。大和朝廷は、この好機にただ舞い上がって全国を力で直接支配しようとしたわけではありません。 そんなことをすれば、地方豪族の激しい抵抗を招くのは目に見えていますし、自分たちの実力の限界も理解していたようです。

彼らが選んだ戦略は「間接統治」でした。大和の律令制では、地方では旧来の豪族たちが郡司として行政を担うことが 多くなり、大和がすべてを直轄するのではなく、地方豪族を組み込んで支配体制をつくっていきました。

地方豪族は郡司として戸籍の整備や班田収授の管理、租庸調の徴収などを担いました。その見返りとして、 郡司の地位を得た豪族たちは、引き続き地域社会の中心的な役割を果たすことができました。

地方豪族の側でも、近隣との争いや利害対立が増えつつある事情もあり、大和の持つ軍事力や調停機能に期待する 理由があったのでしょう。多くの豪族にとっては、独立した存在であり続けるよりも、大和の枠組みの中で地位を 得るほうが現実的な選択でもありました。多くの地域では大規模な抵抗よりも、制度の中で地位を確保する道が 選ばれていきました。

「地域の自主性を残しつつ、大和の傘下に入れる」という柔軟な仕組み、日本流の律令制の実現です。おかげで、 大きな武力衝突にまで至ることは少なく、むしろ制度によって豪族を包み込んでいくことが可能となり、大和を中心に 全国がゆるやかに統合されていきました。

制度を支えた地方文化圏

この仕組みがうまく回るのに欠かせないのは、各地に根づいた地方文化圏の力でした。彼らは形式としては 大和の制度に組み込まれながらも、それぞれの地域は独自の信仰や社会構造を保ち続けていたのです。

その代表的な例のひとつが、豊前・豊後の境に広がっていた宇佐文化圏でした。この地では大和国家の成立後も 独自の信仰と文化が育まれ続け、やがて宇佐神宮と六郷満山という独特の世界を生み出していくことになります。

土地の神だった八幡神

その宇佐の神が、後の八幡神です。 日本史でもよく知られているように、八幡神はやがて武士たちから戦の神様として広く信仰を集めるようになります。 しかし、宇佐の神ははじめから戦いの神様というわけではありませんでした。もともとは地域を守る神、 豊かな実りや海の恵み、人々の暮らしを見守る土地の神だったのです。 ところが八世紀になると、その役割は大きく変わり始めます。

神意という正当性

大和朝廷は律令国家を築き、全国を一つにまとめようとしていました。 とはいえ、この「ゆるやかな統合」がどこでも受け入れられたわけではありません。 とくに列島の南と北、律令の枠組みの外に生きてきた人びととの間では、緊張が絶えませんでした。 隼人との戦い、蝦夷との戦い、ときには地方豪族の反発……。 朝廷は軍事力だけでなく、その戦いが神意にかなうものであるという正当性も必要としていました。

「正当性」といっても、現代の政治にいう建前やスローガンのことではありません。 当時の人々にとって神の意思は、天候や疫病と同じように、現実を動かす力そのものでした。 神意に背いて戦を起こせば、神の怒り――祟りが、疫病や凶作、そして敗北となって跳ね返ってくる。 それは兵士も、そして為政者自身も、本気で信じ恐れていたことでした。 神意に沿わない戦は兵の心が離れ、そもそも成り立たなかったのです。 だからこそ戦の前に神意を確かめることは、形ばかりの儀式ではなく、 今日でいえば天候や敵情を見きわめることにも似た、真剣そのものの備えでした。

託宣が国家を動かす

そこで何度も名が挙がるのが、地方文化圏の神、宇佐の八幡神でした。

律令制に反発する隼人の平定では、朝廷は宇佐八幡に戦勝を祈願しました。 後世の宇佐の記録によれば、八幡神は「みずから隼人平定に赴く」と託宣を下しました。 そして戦いの後、朝廷はこの勝利を八幡神の神威によるものと受け止めました。 この出来事は、宇佐の神が国家を守る神として朝廷から大きな信頼を得るきっかけとなります。

もちろん、現代の私たちに託宣の真偽を確かめることはできません。 しかし、重要なのは朝廷が「宇佐の神の言葉は頼りになる」と考えるようになったことでした。 村人たちが豊作や災害について神に問い、その答えを共同体の意思として受け入れていたように、 律令国家でも、国の重大な決定にあたって託宣が重んじられるようになったのです。 その共同体が「村」から「国家」へと大きくなっただけだったのかもしれません。 八幡神は国家の重大な決定に関わる神として存在感を増し、 こうした出来事が積み重なるにつれ、人々は八幡神を「戦いを導く神」と考えるようになりました。

宇佐と大和を結ぶ瀬戸内の海の道

各地の地域文化は律令制度のもとに。その中で宇佐は、
託宣を通じてひときわ深く頼りにされる存在になっていく
(地図データ: Natural Earth/クリックで拡大)

こうして宇佐八幡は、大和に飲み込まれた一地方の神ではなく、 託宣を通じて朝廷から頼りにされる、日本という国家を支える存在へと歩み始めたのです。

一方、その宇佐神宮のすぐ隣では、山で修行する僧たちの活動も次第に広がっていました。 国家から厚く信頼される神と、山岳仏教の修行者たち。 この二つが出会うことで、やがて国東ならではの「神と仏がともに歩む世界」が生まれていきます。


コラム:戦いのあとに ― 隼人の乱と放生会

隼人の平定は、朝廷にとっては八幡神の神威を示す出来事となりました。 しかし隼人の側から見れば、それは独自の文化や社会が中央政府の支配下へ 組み込まれていく出来事でもありました。

その宇佐では、隼人の乱の犠牲を慰めるために始まったと伝えられる行事、 放生会(ほうじょうえ)が営まれるようになりました。 捕らえた魚や鳥を野に放つこの行事は、殺生を戒める仏教の教えにもとづく儀礼です。

戦いを導く神を祀る社が、殺生を悔い、命を慈しむ仏教の儀礼を受け入れる―― 一見矛盾するようですが、ここには、勝利を神に感謝しながら、 その犠牲は仏の教えによって慰めるという、神と仏の絶妙なバランス感覚を見ることができます。

勝利だけでは終わらせず、失われた命にも思いを寄せる。 のちに国東で花開く「神と仏がともに歩む世界」の芽生えが、すでにここにあったのかもしれません。

宇佐神宮の近くには、隼人の御霊を祀る百体神社が今も鎮座しています。

室町時代「応永の古図」に描かれた百体神社

室町時代「応永の古図」に描かれた百体神社(出典: 宇佐市)