そういうわけで、日本列島には、それぞれの土地に根ざした文化圏が並び立っていました。 その一つだった大和が、やがて周囲の勢力をまとめ、列島規模の国家をつくり始めます。
白村江の敗戦と国家づくりの加速
国家づくりを急がせた大きなきっかけの一つが、海の向こうの百済の滅亡でした。 それ以前から、朝鮮半島との交流を通して僧侶や技術者が渡来し、大和では仏教の受容や制度づくりが進んでいました。 けれども百済が滅ぶと、王族や知識人、工人たちがまとまって列島へ移り住むことになります。
大和は復興をめざす友好国・百済を支援するため、大軍を送りました。しかし当時東アジア最大の帝国だった 唐の軍勢の前に敗北します。日本史に残る白村江(はくすきのえ)の戦いです。
この敗北は、大和政権に大きな衝撃を与えました。 海の向こうの大国に備えるには、それまで以上に人や物を動かせる仕組みが必要です。 それ以前から進められていた国家づくりは、白村江の敗戦によって、いっそう切迫したものとなりました。
大和政権は百済から渡ってきた人びとの知識や技術も借りながら、防衛体制を整え、 戸籍や税、行政組織を備えた律令国家の建設を急いでいきます。
中央の制度を、地方の力で動かす
律令制度が目指したのは、土地と人びとを戸籍に登録し、税を集め、中央の命令を全国に行き渡らせる国家でした。 けれども、都から派遣された役人だけで、遠く離れた土地の事情を把握することはできません。
そこで地方では、中央から派遣された国司のもとで、旧来の豪族たちが郡司となり、地域の行政を担いました。 中央集権を目指した制度も、実際に動かすには、土地と人びとをよく知る地方豪族の力が必要だったのです。
地方豪族は郡司として戸籍の整備や班田収授の管理、租庸調の徴収などを担いました。その見返りとして、 郡司の地位を得た豪族たちは、引き続き地域社会の中心的な役割を果たすことができました。
地方豪族にとっても、郡司の地位を得ることは、中央国家の権威を借りながら、地域社会での立場を保つ道になりました。 もちろん、この仕組みがどこでも平穏に受け入れられたわけではありません。 それでも大和政権は、地方の有力者を制度の中へ組み込みながら、列島各地への支配を広げていきました。
制度を支えた地方文化圏
全国を同じ制度で覆おうとしても、実際に土地を耕し、水を管理し、人びとをまとめていたのは、それぞれの地域社会でした。 律令国家は、そうした在地の力を組み込むことで、初めて動くことができたのです。
中央の制度に組み込まれた後も、それぞれの地域には独自の信仰や社会のつながりが残りました。
その代表的な例のひとつが、豊前・豊後の境に広がっていた宇佐文化圏でした。この地では大和国家の成立後も 独自の信仰と文化が育まれ続け、やがて宇佐神宮と六郷満山という独特の世界を生み出していくことになります。
まだ戦の神ではなかった八幡神
その宇佐の神が、後の八幡神です。 日本史でもよく知られているように、八幡神はやがて武士たちから戦の神様として広く信仰を集めるようになります。 しかし、宇佐の神は、はじめから武士の守護神だったわけではありません。 その起源ははっきりしませんが、宇佐の地域社会の中で託宣を発する神として姿を現しました。 ところが八世紀になると、その役割は大きく変わり始めます。
神意という正当性
大和朝廷は律令国家を築き、全国を一つにまとめようとしていました。 とはいえ、この統合がどこでも受け入れられたわけではありません。 とくに列島の南と北、律令の枠組みの外に生きてきた人びととの間では、緊張が絶えませんでした。 隼人との戦い、蝦夷との戦い、ときには地方豪族の反発……。 朝廷は軍事力だけでなく、その戦いが神意にかなうものであるという正当性も必要としていました。
「正当性」といっても、現代の政治にいう建前やスローガンのことではありません。 当時の人々にとって神の意思は、天候や疫病と同じように、現実を動かす力そのものでした。 神意に背いて戦を起こせば、神の怒り――祟りが、疫病や凶作、そして敗北となって跳ね返ってくる。 それは兵士も、そして為政者自身も、本気で信じ恐れていたことでした。 神意を得ることは、戦いに参加する人びとをまとめ、その行動に意味を与えるうえでも重要でした。 だからこそ戦の前に神意を確かめることは、形ばかりの儀式ではなく、政治的な承認と社会的な合意、 そして宗教的な確信を一つにする、真剣な営みだったのです。
託宣が国家を動かす
そこで何度も名が挙がるのが、地方文化圏の神、宇佐の八幡神でした。
七二〇年、九州南部で隼人の反乱が起こります。 後世の宇佐の記録は、このとき八幡神が「みずから隼人平定に赴く」と託宣を下し、 神輿に乗って遠征に加わったと伝えています。
この伝承の細部を、同時代の記録から確かめることはできません。 それでも、後の宇佐では、八幡神が国家の戦いに力を貸したという記憶が大切に受け継がれました。 宇佐の神は、地域の問いに答える神から、国家の戦いにも関わる神へと姿を変えていきます。
しかし、八幡神が朝廷から頼られた理由は、戦いだけではありませんでした。
八世紀半ば、聖武天皇は東大寺に巨大な盧舎那仏を造るという、国家を挙げた事業を進めていました。 その実現には、技術、資材、人びとの協力など、数多くの困難がありました。 そんな中、宇佐八幡は大仏造立に力を貸すという託宣を発したと伝えられます。
七四九年、八幡神は宇佐から奈良へ迎えられ、完成間近の大仏を拝みました。 中央の国家が地方の神を呼び寄せ、その力を借りたのです。 宇佐八幡は、もはや一地域だけの神ではありませんでした。
隼人平定では国家の戦いに関わり、東大寺では国家仏教の大事業を支える。 こうして八幡神は、国家を守り、仏教を支える神として、朝廷から特別な信頼を得ていきました。
各地の地域文化は律令制度のもとに。その中で宇佐は、
託宣を通じてひときわ深く頼りにされる存在になっていく
(地図データ: Natural Earth/クリックで拡大)
こうして宇佐八幡は、大和に飲み込まれた一地方の神ではなく、 託宣を通じて朝廷から頼りにされる、日本という国家を支える存在へと歩み始めたのです。
一方、宇佐の周辺や国東半島の山々では、仏教に関わる人びとの活動も次第に広がっていました。 国家から厚く信頼される神と、山岳仏教の修行者たち。 この二つが出会うことで、やがて国東ならではの「神と仏がともに歩む世界」が生まれていきます。
コラム:戦いのあとに ― 隼人の乱と放生会
後世の宇佐では、隼人の平定は八幡神の神威を示す出来事として語り継がれました。 しかし隼人の側から見れば、それは独自の文化や社会が中央政府の支配下へ 組み込まれていく出来事でもありました。
その宇佐では、隼人の乱の犠牲を慰めるために始まったと伝えられる行事、 放生会(ほうじょうえ)が営まれるようになりました。 捕らえた魚や鳥を野に放つこの行事は、殺生を戒める仏教の教えにもとづく儀礼です。
戦いを導いたとされる神を祀る社が、殺生を戒め、命を慈しむ仏教の儀礼を営む――。 一見矛盾するようにも見えます。
けれども後世の人びとは、戦いに加わった八幡神と、そこで失われた命を慰める仏教の教えを、 一つの物語の中に結びつけました。勝利だけでは終わらせず、失われた命にも思いを寄せる。 そこには、のちに国東で花開く「神と仏がともに歩む世界」の芽生えを見ることができます。
宇佐神宮の近くには、隼人の御霊を祀ると伝えられる百体神社が今も鎮座しています。
室町時代「応永の古図」に描かれた百体神社(出典: 宇佐市)
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