国東物語 ― 史料でたどる国東1300年

7. 山の仏教 ― 六郷満山始動

前回紹介したように、宇佐では神と仏が結びつき、神仏習合という新しい信仰の形が生まれました。 しかし、この時点ではまだ「六郷満山」は存在していません。

現在「六郷満山」と呼ばれている寺院群は、古代から江戸時代までの史料では、おもに「六郷山」と記されていました。 ここでは、現在親しまれている六郷満山という名で、その成り立ちを見ていきましょう。

開山の伝承と、実際の歩み

のちの時代、六郷満山はみずからの始まりをこう語るようになります。

「養老2年(718)、八幡神の化身である僧・仁聞(にんもん)菩薩が、半島の谷々に28の寺を開いた」。

前回の結びで触れた、出家した八幡神が国東の峰々を修行の舞台に選んだという伝承です。 ただし、これは六郷満山が大きな力を持った後の時代に、みずからの由緒を語るために整えられていった縁起、いわば起源の物語です。 養老2年ごろの寺院の姿を示す遺物や文書は、今のところ確認されていません。

実際の歩みは、もう少しゆっくりと、しかし着実に進んでいきました。 発掘調査では、八世紀後半から九世紀にかけて、来縄郷(くなわごう、現在の大分県豊後高田市周辺)などに寺院が営まれていた痕跡が見つかっています。 はじめから28の寺が一つの組織をつくっていたのではなく、各地に生まれた寺院や岩屋の修行場が、長い時間をかけて結びついていったと考えられます。

弥勒寺の傘の下で

その結びつきの中心となったのが、宇佐神宮と、その神宮寺である弥勒寺でした。 神を祀る宇佐神宮に対し、弥勒寺は仏教儀礼を担う存在です。

国東半島の山々は、弥勒寺の僧たちにとって祈りと修行の場になっていきました。 僧たちは山へ入り、峰を巡り、岩屋にこもって祈りました。 そうした活動の中から各地に寺院や霊場が育ち、やがて互いに結びつきを持つようになったと考えられています。

いわば、宇佐神宮と弥勒寺という大きな傘の下で、山の寺々が少しずつ育っていったのです。 ただし、それはまだ後の六郷満山のような、整った組織ではありませんでした。 六郷山は弥勒寺との関係を保ちながら、やがて独自の寺院組織へと成長していきます。

山の仏教、天台の風

その成長を大きく後押ししたのが、天台宗との結びつきでした。

比叡山を拠点とする天台宗は、山中での修行や密教的な儀礼も重んじました。 山や岩屋を祈りの場としてきた国東半島の僧たちにとって、その教えは受け入れやすいものだったのでしょう。

天台の教えが国東半島に本格的に流れ込むのは、十一世紀末のことでした。 宇佐の弥勒寺と中央の天台宗との結びつきが深まり、十二世紀前半には、六郷山も比叡山延暦寺の権威のもとに置かれるようになります。

とはいえ、ある日を境に半島の寺々がいっせいに天台宗へ衣替えしたわけではありません。 天台の教えや修行の作法は、もともとの山への信仰や八幡神への信仰と重なりながら、山から山へ、僧から僧へと伝わっていきました。 弥勒寺の傘の下に育った山の仏教へ、天台の風が吹き込み、この土地ならではの姿を形づくっていったのです。

峰々を結ぶ修行

六郷満山には、仁聞菩薩ゆかりの岩屋や寺院を巡る「峯入り」の修行も伝えられています。

伝承では、平安時代の初め、津波戸山で修行していた能行聖人の前に仁聞が現れ、国東半島を巡る峯道を授けたといいます。 その成立時期や当初の形ははっきりしません。 しかし、山から山へ、岩屋から岩屋へと歩く修行は、のちに半島各地の寺院を結びつける重要な営みになっていきました。

同じ道を歩き、同じ岩屋で祈り、共通の儀礼を行う。 峰々を巡ることは、一人ひとりの修行であると同時に、離れた寺々を一つの信仰世界へ結びつけることでもあったのです。

六郷の編成と惣山

「六郷」とは、国東半島に置かれた来縄(くなわ)・田染(たしぶ)・伊美(いみ)・国東(くにさき)・武蔵(むさし)・安岐(あき)という六つの郷を指します。 十二世紀から十三世紀にかけて、そこに広がる寺院群は、本山・中山・末山という三つのグループに編成されていきました。

  • 本山(学問や僧の教育、教義の研究)
  • 中山(山岳修行)
  • 末山(里の人々への布教)

それぞれが役割を分担し、多数の寺院が一つの体系として機能するようになっていきます。

六郷満山の寺院のひろがり

六郷満山の本山・中山・末山のひろがり
(所在の伝わる24か寺、おおよその位置。
寺院の所在は『国東六郷満山』(木星舎)ほかによる。
標高データ: 国土地理院/クリックで拡大)

六郷山には、全体を統括する中核寺院として「惣山」も置かれました。 中世には屋山の長安寺が惣山となり、別当や執行と呼ばれる僧たちが組織の運営を担いました。

一方、十二世紀の文書には、多くの僧が連名で土地に関する決定を承認した例も残っています。 六郷山は惣山や執行などの役職を持ちながら、各寺院の僧たちの合意も重んじる組織へと発展していったと考えられます。

こうして人々は、自分たちを単なる寺院の集まりではなく、国東半島全体を一つの修行の場とする共同体として捉えるようになっていきました。 宇佐神宮・弥勒寺との結びつき、天台宗という都の大きな権威、そして国東半島で育った独自の組織。 それらが重なって生まれたのが、六郷満山だったのです。

切り替わらないまま、重なっていく

六郷満山の成り立ちは、一つの仕組みが古い仕組みに取って代わった歴史ではありませんでした。

宇佐神宮と弥勒寺の影響を受けた山岳修行と寺院の形成。 そこへ加わった、天台宗と比叡山延暦寺との結びつき。 そして、惣山と本山・中山・末山によって形づくられた独自の寺院組織。

新しい仕組みが加わっても、以前からの信仰や関係がすべて消えたわけではありません。 八幡神への信仰を保ち、弥勒寺とのつながりを持ちながら、天台の教えを受け入れ、半島に合った運営の仕組みを育てていく。 六郷満山は、異なる時代の流れを重ねながら成長した共同体でした。

その重なりを、一つの山の名が今に伝えています。 国東半島の西にある「西叡山」――西の比叡山という名です。 この山の高山寺は、六郷山の寺々を束ねた初期の惣山であったと伝えられています。 伝承と天台の権威、そして半島独自の組織が一つの山に重なった、六郷満山らしい場所といえるでしょう。

こうして宇佐神宮と六郷満山という二つのネットワークは、互いに関係を保ちながら発展していくことになります。 次回は、その歩みを経済の面から支えた荘園に目を向け、六郷満山が半島全体を包み込むまでに成長していく姿を見ていきましょう。


行ってみよう: 六郷満山を束ねた山 ― 西叡山高山寺

本編で紹介した西叡山(さいえいざん)は、田染盆地の西にそびえる山です。 その登山口近くにある高山寺(こうざんじ)は、六郷山の寺々を束ねた初期の惣山であったと伝えられています。

「西叡山」という山の名は、都を守る比叡山に対して「西の叡山」を意味するもの。 のちには京都の比叡山、江戸の東叡山と並ぶ「三叡山」の一つとも称されました。 そこには、天台の教えとともに歩んだこの山の誇りがうかがえます。

中世になると、屋山の長安寺が惣山として六郷山全体を統括するようになります。 西叡山にあった古い伽藍は時代の流れの中で失われ、現在の高山寺はのちに再興されたものですが、今もこの地に法灯を伝えています。

西叡山は、第4章で紹介した田染荘の谷を西から見下ろす山です。 麓に広がる荘園の実りと、山の上の祈りの世界。 その二つがひとつながりだったことを、この山の眺めは教えてくれます。

詳しくは豊後高田市の紹介ページもご覧ください。