こうして宇佐や国東には、仏教がしだいに根を下ろしていきました。 一方、宇佐神宮もまた、朝廷との結びつきを深めながら、その影響力を広げつつありました。
やがて、この二つの動きが交わりはじめます。
成長する宇佐神宮と国家仏教
宇佐神宮は、この頃には九州を代表する大きな神社へと成長し、単なる地方の神社ではなくなっていました。 隼人平定や国家事業への託宣などを通じて、宇佐の八幡神は朝廷から深い信頼を得るようになります。 やがて八幡神は国家を守る神として都にも迎えられ、その名は全国へ広がり始めました。 宇佐神宮は、地方の有力神社から国家を支える神社へと役割を広げつつあったのです。
しかし、国家の安泰を支える役割を担っていたのは、神々への祭祀だけではありませんでした。 奈良の都では、仏教もまた国家を守る重要な役割を担うようになっていました。
村では、神も仏もとなりどうし
ところで、神と仏の出会いといっても、村々の暮らしの中では、両者は必ずしも対立するものではありませんでした。
人々は田の実りや航海の安全を神々に祈り、病や災いを逃れたいときには仏にも願いを託しました。 亡くなった人のために経をあげてもらうこともあったでしょう。 海を越えてやってきた人々も、もともとこの地に暮らしていた人々も、それぞれの神々を敬いながら、仏にも手を合わせていきました。
人々にとって、神と仏はどちらか一方を選ぶものではありませんでした。 暮らしの中では、それぞれに異なる願いを託すことのできる、ありがたい存在として受け入れられていったのでしょう。
神と仏を結ぶ考え方
朝廷は神々への祭祀を国の制度に組み込み、その一方で仏教にも国家を守る役割を求めました。 神と仏の双方が重みを増すにつれて、人々は両者を対立させるのではなく、同じ世界の中に位置づけようとするようになります。
そこから、神も迷いや苦しみを抱え、仏の救いを求めることがある、あるいは神もまた仏の教えを守り、人々を救うために力を貸している、という考え方が広がっていきました。 後の世に「神仏習合」と呼ばれるこの結びつきは、初めから一つの理屈として出来上がっていたのではありません。 神社のそばに寺が建てられ、神前で経が読まれ、神と仏の双方に祈りが捧げられる中で、しだいに形づくられていったものです。
こうした神と仏の接近を象徴するのが、宇佐神宮の境内に置かれた弥勒寺でした。 神を祀る社のそばに仏を祀る寺が建ち、神と仏は同じ場所で、ともに人々の祈りを受けるようになっていきます。
神が仏を拝んだ日——東大寺の大仏
そして、この新しい関係を天下に示す出来事が起こります。 奈良の都で進められていた、東大寺の大仏造立です。
聖武天皇が発願したこの大事業は、難航していました。 巨大な仏像を鋳るための大量の銅、その表面を飾る黄金、そして途方もない労力と費用。 国を挙げた事業は、幾度も行き詰まりかけていました。
そのとき朝廷に届いたのが、宇佐の八幡神の託宣でした。
「天の神、地の神を率いて、必ず大仏を成し遂げよう」
一地方の神が、国家の大事業に――それも仏教の象徴というべき大仏の造立に――力を貸すと宣言したのです。
天平勝宝元年(749)、八幡神はついに宇佐から都へ上ります。 神職の尼、大神杜女(おおがのもりめ)が八幡神の依代となり、神霊とともに紫色の輿に乗って、朝廷の丁重な出迎えを受けながら奈良に入りました。 そして造立の進む大仏の前で、八幡神は仏を拝んだのです。
神が、仏を拝む――。 これは、神仏習合が国家の表舞台に姿を現した、象徴的な瞬間でした。 朝廷は八幡神に「一品」というきわめて高い位を贈り、東大寺のかたわらには八幡神を祀る社が置かれました。 これが現在の手向山八幡宮です。
出家した神——八幡大菩薩
八幡神と仏との関係は、さらにもう一歩深いところへ進みます。
天応元年(781)、朝廷から八幡神に菩薩号が贈られ、八幡神は「八幡大菩薩」と称されるようになりました。 神でありながら、菩薩――仏の悟りへの道を歩みながら、人々を救う存在――でもある。 「八幡大菩薩」という名は、神と仏の結びつきを端的に示すものでした。
後世になると八幡神は、頭を剃り、袈裟をまとった僧の姿でも表されるようになります。 「僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)」と呼ばれるこの姿は、出家して仏に帰依した神という、神と仏が深く結びついた信仰のかたちを今に伝えています。 東大寺には、名仏師・快慶が鎌倉時代に造った国宝の僧形八幡神坐像が、今も大切に祀られています。
仏法を守るだけでなく、神みずからが仏の道を歩む。 神と仏の結びつきは、ここに一つの大きな節目を迎えたのです。
全国へ広がる八幡信仰
神と仏がともに人々を導くという新しい信仰のかたちは、宇佐神宮にとっても大きな意味を持ちました。 宇佐神宮は朝廷との結びつきをさらに深め、やがて全国有数の神社へと成長していきます。 現在、日本各地に数多く見られる八幡宮も、その広がりの中から生まれたものです。
一方、八幡神と国家との結びつきは、このあと武士の時代を迎える中で、「軍神・八幡」という性格も帯びていきます。
そして次回は、この神仏習合を土台として国東半島に生まれた、もう一つの大きな共同体「六郷満山」の始まりを見ていくことにしましょう。 伝承は語ります――出家した八幡神が修行の舞台に選んだのは、ほかならぬ国東の峰々だったのだと。
行ってみよう: 東大寺を守る八幡神 ― 手向山八幡宮
本編で語った八幡神と大仏の物語には、今も訪ねられる続きがあります。 奈良の東大寺、大仏殿の東の丘に鎮座する 手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)です。
大仏造立を助けるために都へ上った八幡神は、天平勝宝元年(749)、 東大寺の鎮守(守り神)として宇佐からこの地に迎えられました。 以来千二百年あまり、八幡神は東大寺の守り神として祀られてきました。
社殿は大仏殿から二月堂・三月堂へと続く静かな散策路の途中にあり、 古くから紅葉の名所として知られてきました。 「このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」―― 百人一首にある菅原道真のこの歌は、この手向山を詠んだものと伝えられています。
奈良を訪れる機会があれば、大仏様を拝んだあと、 その大仏を千年以上守り続けてきた宇佐生まれの神様にも、ぜひ手を合わせてみてください。 国東・宇佐の物語が、遠く奈良の都までつながっていることを実感できるはずです。
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